monologue
夜明けに向けて
 



 京都の三菱重工で自動車のエンジン部などを長年製作して定年を迎えた父はミミズを飼ってそのフンを園芸用の肥料として販売する仕事を始めた。最近はミミズで生ゴミを処理するミミズコンポストが流行ってミミズも見直されているようだ。父はその人生でありとあらゆる生き物を飼ってきて最後にゆきついたのがミミズとは…。ミミズは人の目につかないから「見えず」から名付けられたというがかれらは見えないところで縁の下の力持ちとして土壌を耕しわたしたちに栄養に富んだ食物を供給してくれている。かれらは見かけが悪くて嫌われることが多いのだがどれほど役だっていることか。人もまた見かけによらないことが多いようだ。
fumio

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京都市内の路地裏の家に住んでいた頃、夏には燕がよく飛んでいた。それは飛びかたが格好よくてわたしが大好きな鳥だった。近所の家の屋根の軒下に巣を作っているのをよく見かけた。玄関の上に隙間のあったわたしの家の中まで入ってきて天井の下の軒のあたりに巣を作って子供を育てていた。その子供たちが大きくなって巣立ってゆき翌年また帰ってきて同じところに巣を作って子供を育てた。毎年帰ってくるのが楽しみだった。あの燕達の子孫は今はどこに巣を作っているのだろうか。

   そしてロサンジェルス時代、借りていた家の裏にあった使用していない石の暖炉に名も知らない小鳥がやってきて巣を作って子供を育てた。わたしたちの存在をチラチラ警戒しながらもそれが暖炉であることは知らず丁度いい穴だと思ったらしい。その翌年やって来た次の世代にとってはその暖炉が自分達の元からの巣なのでべつにわたしたちを怖れることもなく淡々と子育てして飛び立っていった。代が替わってもやってくるのがなんだかうれしかった。みんな生物の大きなサイクルの中で生きていたのだ。人もまた…。
fumio

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鈴虫  


毎年、この季節に、あたりの草むらで秋の虫の声が聴こえると幼い頃京都の家で飼っていた鈴虫を思い出す。外国人には虫の声は雑音にしか聞こえないと聞くと不思議な気がする。

  ガラスの容れ物に土を入れて飼っていたのだが毎年、季節になると素晴らしい鳴き声で楽しませてくれた。しかし季節が終わるとメスたちがオスを食べるのが子供心に無惨に感じたものである。そしてやがてはみんな死に絶えてしまい一見土だけのように見えるのだが実は土の中にメスが卵を生んでいて翌年には新たな世代の鈴虫が出てくるのだった。ありとあらゆるところで起こっている生物のサイクルの仕組みがそこにもあった。
fumio

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ロサンジェルス動物園といっても柵や囲いの中で飼われている動物たちは日本の動物園で見る動物たちと変わりがなくあまり生き生きとして見えかった。わたしは広い囲いのスペースで悠然と向こうを向いている犀(サイ)に大声で「サイ!」と呼びかけた、するとサイはビクッと反応した。あまり声などかけられたことなどなかったのだろう。驚いたのか。その反応が面白かったので何ヶ月かして次に訪れた時同じサイに同じ迫力で声をかけた。しかしその時はなにも反応しなかった。初めてではないから慣れたのでまたあいつかとと知らん顔したのかもしれない。ちょっとがっかりした。

 多くの動物を見てまわって息子が一番興味を惹かれたのはモグラだった。町の中では土はアスファルトで覆われているので目にすることがないモグラがここではこんにちはとばかりに土から顔を出してくるのだ。不思議そうに対面していた。モグラたちにとっても人類にとっても顔をだして息ができる環境はどんどん減って生きてゆきにくい時代になってしまった。
fumio

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ロサンジェルス時代、家族でよく行ったのはロサンジェルス動物園だった。

ここの入り口あたりにはフラミンゴが放し飼いになっていた。別に屋根や囲いがなくとも逃げてしまわないらしかった。自分達のいるべきエリアを知っていて群生していた。別にそれで争いも起きず平和にやってくる見物客を見ていた。孔雀も放し飼いになっていたがかれらは気が荒く領域にうるさいらしく息子が近付くと威嚇して空中を飛び追いかけた。それを見た係員が息子を孔雀のそばに近づけるなと注意しにやってきた。なるべくかれらを自然に近い状態で暮らさせようとして放し飼いにしてあったのだろうけれどそれぞれの生き物たちの性質をよく知らないとむづかしいようだった。
fumio

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金曜日の夜、テレビで映画「ナイトミュージアム」をやっていたのでロサンジェルスでよく行ったラブレア・タールピットにあるLAミュージアムを思い出した。近くに位置した英語学校のフィールド・トリップで見学してその感想を作文するというアサインメント(課題)が与えられたことがあったのだ。恐竜やマンモスなど絶滅した動物の骨格標本などとあたりのタールに足をとられて動けなくなった様々な動物が展示され、そして最古の女性のミイラのような姿が展示されていた。わたしはその女性を念入りに見つめ、学校に帰って以下のような意味の英作文を提出した。

 「ある日、戸外で気を失って長い年月のあと気が付くと毎日多くの人々の視線を浴びるスターとしての生活 が始まっていた。恥ずかしさ、誇らしさ、さまざまな複雑な思いを胸にかの女は今日も新たな好奇の視線を受け続けている。はたしてかの女は本当はなにを思っているのだろうか」

  現在、絶滅危惧種とされる多くの動物も絶滅してしまうと世界各地の博物館に展示されることになる。なるべくそうなる動物が増えないことを祈りたい。
fumio

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  ロサンジェルス市内にグリフィスパークという公園がある。丘の頂上にはグリフィス天文台がありジャイムス・ディーンの「理由なき反抗」など多くの映画のシーンに使用される場所である。その森の中の公園で市民はそれぞれに楽しむのだ。わたしたち一家もピクニックのつもりでサンドイッチを作ってそこにしつらえられた木製のテーブルで食事したものだった。するとあたりの木からリスたりが当たり前のように遊びに来る。人を怖れることなどまったくなくやりたい放題に駆け回る。狙いはパンなどらしかった。リスたちとの楽しい食事に癒されて人は明日の仕事の活力を充填しているようだった。息子はどうしてリスたちがやって来るのか不思議そうだった。人が欲や都合によって捕まえたり追ったりしないかぎり人と動物は仲良くやってゆけるのだ。
fumio

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  ロサンジェルスで出会い結婚して息子ができたわたしたち一家はエディ・辻本という日系人夫妻の大家さんの庭の裏家を借りて住んだ。そこの庭には太郎という名のダックスフンドがいた。のちに大家さんは白と黒の混じった中型の雑種の子をもらってきて次郎と名付けて一緒に飼った。海外でも日本人の犬の名前はタロー、ジローが多いようだ。庭に入る扉を開けるとタローは待っていたようにわたしの足元を抜けて舗道に駆け出した。背が低いので捕まえにくい。しばらく追いかけてつかまえると持ち上げて庭に入れるのが日課のようだった。ジローはそれを見ていてわたしを怖れた。わたしが姿をみせると隠れるのだ。犬もそれぞれ性質が違っていて面白い。そして元気だったタローが15才を過ぎて老いのためにあまり動けなくなってくると大家さんは見かねて獣医に頼んで注射で逝かせることを決断した。
fumio

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ピレニアンマウンテンドッグの「ポス」が1977年に死んだあと父はドイツのシュナウザーという小型の犬種のつがいを室内犬として飼い始めた。オスには「ポス」の名前を継がせメスには「ポニー」と名付けた。
  わたしが1986年に米国から帰国するとその二頭が吠えたてて迎えてくれたが小さいシュナウザーにはポスという名前は合わないような気がした。 その後、わたしたち一家は京都の父母と同居せず埼玉に移転して盆や正月に里帰りして犬たちと対面するだけだった。しかしオスの「ポス」は寿命が短くしばらくするとメスの「ポニー」だけになった。わたしが里帰りして夜長椅子をベッド代わりにして寝ているとポニーがわたしの腹の上に乗って寝ていた。そのポニーも糖尿病を患い母が毎朝インスリンを注射するようになった。かわいいからと人間と同じような食事を与えると動物には不具合が起こる。

 わたしの母、房子は2001年4月2日に心不全で亡くなった。葬式を終えてわたしが埼玉に帰って数日後、ポニーが死んでしまったという電話が入って驚いた。母とよほど強い絆で結ばれていたらしい。合掌…。
fumio

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なぜわたしがこのお盆からこの「生き物たちの記」を書き始めたのか不思議だったがどうやらピレニアンマウンテンドッグの「ポス」のせいらしい。ポスはピレネー山脈の雪のように白い大きな救助犬として1968年に生まれた。そしてわたしたち一家がその年新築して移転してきた京都府久御山町の家にやってきた。それからずっと毎日一緒に暮らした。性格の良い素晴らしい犬だった。純血種の常として犬が蚊に刺されて感染する心臓の寄生虫「フィラリア」に弱く予防注射をしたがかかってしまい心臓が弱くなった。お医者さんにきてもらって薬を食べさせたりしたが根治はできなかった。それで暑い時に走るのを嫌がったのだ。家族の一員として暮らすうちに散歩についてきた「コロ」という雑種のテリヤ犬とも仲良く過ごした。しかしある日コロは人を噛んでいなくなった。

  そしていつも散歩に連れて歩いたわたしが1976年11月に日本を離れ米国に渡った。するとポスは77年に9才で死んでしまったのである。わたしがこうしてポスのことを書けばそれでかれは存在したことになる。そう、名もない生き物たちもだれかに書かれることによって生きていた証をこの世に遺すのだ。そうだね、ポス!。
fumio

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コロ  


コロが自分のことも書けとせがむので書いておく。ある日父がピレニアンマウンテンドッグの「ポス」と散歩していると野良犬がついてきた。それは目が毛で隠れる中型のテリア系の雑種だった。馴れ馴れしくついてくるので父は追い払えず庭に入れた。そして「コロ」と名付けて飼い始めた。ポスとコロは仲良く暮らした。ウサギたちとも。わたしは朝6時と午後5時頃に二頭をラニングや散歩させた。ポスは白熊のように体がでかいのではやく走るのをいやがったがコロはうれしがった。そしてやがて向かいの小学生の女の子たちがわたしたちの散歩を見つけるとついてくるようになった。大名行列のように連なって近所の原っぱを歩き散歩のあとは二頭が牛乳を飲むのが日課だった。夜になって父が帰宅してポスが前足でガラス戸を開けると当然のように上がってきて父の夕食の相伴に預かった。手乗りセキセイインコたちと犬二頭と人間たちとの夕餉は別に争いもなく穏やかだった。コロにとってそれは幸せな日々だった。

  しかし別れは突然やってきた。ある日、父が散歩している時、コロが突然人を噛んでしまったのだ。人を噛む犬は保健所に連れていって処分しなければいけないとせまられた父は困って遠くの町に車で行きだれか愛犬家に飼ってもらうようにコロの首ヒモを棒にくくりつけて帰ってきた。そして日頃涙を見せない父がその日は泣いていた。
コロがだれかに飼ってもらえて幸せな一生を終えたことを願う。
fumio



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父は今度はつがいのウサギを買ってきて庭の鳥小屋の下に扉をつけてウサギ小屋にした。昼間は庭に放して自由にさせる。かれらは別に犬と喧嘩するでもなく平和に遊んでいた。そして暗くなってくるとわたしが鳥小屋の下のウサギ小屋に入れるのだ。ところがかれらはそれをいやがって逃げる。わたしは庭中を駆け回りなんとか一羽ずつつかまえる。普段ゆったりしているくせにその時だけは脱兎の如くという表現のとおりすごい速さだった。カナリヤもウサギも巣に入れられる前のその鬼ごっこを楽しんでいる気配があった。別に危害を加えられるわけでないことをわかっていて逃げ回るのがうれしいのかもしれなかった。人との暮らしでの運動不足をそれで解消していたらしい。なるべく生き物たちを縛らず自然に近い状態で暮らさせたいと思うけれどそれはなかなかむづかしい…。
fumio


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水槽  


 ある日、父は水槽を買ってきて応接間で熱帯魚を飼った。そしてしばらくすると色々な種類の金魚や小さな魚を入れて楽しんだ。そしてそれには物足りなくなったのか今度は鯉を数匹入れた。すると数日すると多かった他の魚の数が減りだした。鯉がいつのまにか捕食していたのだ。父はそれに気付いて鯉をどこかの川に流してしまった。わたしたちは簡単だからとなんでもかんでも一緒にしてはいけないということを学んだのである。

  今、琵琶湖その他の湖や池で同じことが起きている。人間が入れる外来魚のブルーギルその他の肉食魚によって本来の地元の魚が追いやられその湖の生態系が破壊されてゆく。以前捕れていた魚が捕れなくなり結局は人間の生活の手段を奪うことになってしまう。生き物たちとは適切につき合わねば…。
fumio

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父は今度は籠に入ったカナリヤを買ってきて洋室で飼った。これは本当に良い声で鳴く小鳥だった。自分でも自分の声の良さを自覚していて人に聴かせて喜んでいる気配があった。寿命は短くて死ぬと父はすぐに別のカナリヤを買ってきた。それぞれに自分の節を工夫して鳴き何代目かの赤が濃いカナリヤが最も声が良く母はカセットテープに録音してその死後も聴いた。けれどカナリヤは臆病で人に狎れにくく手乗りにはならなかった。一日中籠の中で鳴いているだけではつまらないだろうと思って昼間は洋間に放し飼いにした。セキセイインコと違って暗くなってきても自分で籠に入らない のでわたしが捕まえて籠に入れた。そのたびにカナリヤはそれを楽しみにしているのかしばらく逃げ回る。逃げられないところに追いつめると飛べないように灯りを消して捕まえて籠に入れた。そして翌朝また籠の戸を開け洋間の中で自由にさせた。かれらはけっして歌を忘れることはなく楽しませてくれた。わたしもまた「歌を忘れたガナリ屋」になることのないように生きたい。
fumio


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父はセキセイインコだけで満足せず、オカメインコやルリコシインコなど大きめの数種のインコも買ってきて茶の間の同じ鳥籠に入れた。すると紛争が勃発した。一番大きくおだやかなオカメインコが色鮮やかで美しく気の強いルリコシインコに追われるのだ。見かけと性格がずいぶん違って意外だった。見ていられないので父は日曜大工で庭に大きな鳥小屋を作った。手乗りになったセキセイインコだけは茶の間の籠に置き、あとのインコたちを庭の鳥小屋に移したのである。その中では棲み分けができてあまり喧嘩は起こらないようだった。どこかで飼われていたセキセイインコが逃げてきて仲間を見てその小屋にとまると一緒に入れてやったりしたものだった。小屋を地球としてみるとそこの鳥たちの姿は人類の民族の縮図のようだった。
fumio

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