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戦後70年、そして国会では安保法案が強行採決された今日、フィリッピン派遣
第14軍通信部隊第4中隊に所属されていた方の自伝を見る機会を得た。
当の林原軍曹(当時)さんは、すでに他界されておられないが、その縁者の方か
ら もう1冊しか残っていないという貴重な自伝をお借りして一挙に読んだ。
通信部隊に所属しフィリッピンに派遣されていた林原さん、自分の体験をもと
に和文タイプライターで、「密林」「バターン死の行進について」を書かれて
いた。
「密林」がNO1となっていたので、続きがあるのかも知れないし、中途で他界
されたかも分からない・・・
それはともかく「密林」を読んで感じたのは、兵隊・軍隊がいつも戦争してい
たのでないということ、あたり前のことですが、何故か我々の頭には激戦南方
戦線としていつも戦っていたのイメージが。
地元の教会の伝説の話とか、ヘルモサの川を温泉に見立ててくつろいでいた様
子や、他の部隊が戦っている付近に敵前訓練として引っ張りだされた話や、内地
への異動が中止となりがっくりきた人の話等々。
戦時中しかも最前線でも、泣いたり笑ったりの、つかの間の日常が合ったこと
がよくわかる、しかし当然に戦闘シーンもある、村長感じたのは通信隊という任
務がら超最前線でのドンパチは少ないように思えた。
もう一つの「バターン死の行進について」は、バターン半島で降伏した米軍捕虜
7万5千人を60キロあまり行軍させ、多くの捕虜を死なせたとして、現地司令官本間
中将が戦後の極東軍事裁判で銃殺刑にされた話だ。
いわゆるB級戦犯として処刑されたが、事実は何万も行軍では死んでいないと言う
ことだ、せいぜい60人くらいと述べている、しかも日本兵には食事を抑えて、捕虜
には食事を与えていた・・・
通信兵として、同じ行進していた林原さんが書いているのだから事実だろう。
つい南京大虐殺の話とダブってしまう、戦勝国のでっち上げ?とまで言わないが、向
こうの論理で裁いたのは間違いない。
短い二つの自伝ではあるが、色々考えさせられるし、軍隊の中での日常が分かりほの
ぼのとした気持にもなれた。
後世に伝える話と思う。
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