鹿児島夫婦強盗殺人事件に 無罪判決を出した 裁判員経験者の何人かは、
「被害者遺族には申し訳ない」 と 述べています。
冤罪を作らないようにしたのであって、 申し訳ないと感じる 必要はないわけですが、
裁判員経験者は 被害者遺族に対しても 罪悪感を感じてしまっています。
ある心理学の調査では、 殺人事件の被害者遺族の陳述を 聞いた場合、
有罪と答えた割合は 71%でしたが、 聞かなかった場合は 46%だったそうです。
被害者の声によって 大きな影響を受けていることが 分かります。
一方、 先の石巻3人殺傷事件 (被告が少年) の 裁判員経験者は、
死刑判決を下したことを 被告から一生怨まれても 仕方ないと、
重い責任を 生涯背負う覚悟をしています。
裁判員は どのような判決を出しても、
誰かから責められる 重荷を負わされるわけです。
その深刻さを、 未経験者は 理解できていないだろうと思います。
ネット上には 相変わらず軽々しい 死刑合唱の書き込みが見られます。
またTVでは、 裁判員と被害者の 両方の立場を経験した人が 紹介されていました。
2年前に 妊娠中の娘が 交通事故に遭い、 母子とも後遺症を負ったという 父親は、
加害者に死刑を求刑してほしいと 望みました。
しかし 自分が裁判員になり、 放火で 自宅の一部を失った被害者が、
加害者に死刑を求めたとき、 「勘弁してください」 と 思ったといいます。
そして、 憎しみだけで簡単に 人を殺してほしいと 言った自分が、
恥ずかしくなったというのです。
自分が裁く側になって 初めて、
「死刑」 という言葉の 大変な重さを感じたわけです。
この男性は 裁判員を経験したことによって、 憎しみからは離れたといいます。
このような経験も、 裁判員制度の 大きな効用と言えるのでしょう。
厳罰化を要求する 多くの人は、 処罰感情だけで 決めているように思えます。
けれども 自分が実際に 裁く立場になれば、
とても簡単に 極刑を下すことなど できないということです。
繰り返し言っているように、
被害者の立場では 犯人が死んでほしいと思うのが 自然だとしても、
裁判は決してそれだけで 判断するものではないのです。
〔 参考文献 : 読売新聞, TBS 「報道特集」 〕