ちょっと時間がかかったけど今日読了。
『誰も知らない世界と日本のまちがい 自由と国家と資本主義』松岡正剛(春秋社)
英語タイトルが"The Errors of Nation States"である。腰巻きには「大人は、読まなきゃいけません。禁断の世界史講義、開幕。世の初めから隠されていた秘密が明らかになる……。」と、ちょっとアレな感じな惹句(汗)。でもオカルト系ではありません。
幕末から明治維新、さらに19世紀から20世紀の歴史に興味を持つ者にとって、気になるひとつの問いが「近代国家(Nation State)とは何か」ということだ。
最近読んだ本の中でひとつの答えは、下記の本にあった。
『幕末・維新―シリーズ日本近現代史〈1〉』井上勝生 (岩波新書)
ペリー来航からわずか10年ほどの明治維新を経て、維新政府が目指したのは欧米の近代国家というグローバルスタンダードにのっとって自国を整備したことだった。すなわち、自国の国民を確定するために戸籍を整え、国境を確定し(ロシアとは、結局、戦争を経てしか国境を確定できなかったが)、逆に自国の領土と認識する自国の領域内にいる少数民族を近代国家の理論でもって囲い込み(アイヌを想定しているが、まさしく米国政府がアメリカンインディアンに対した政策とよく似ている)、さらに周辺各国で欧米のグローバルスタンダードに抵抗する国を欧米の理屈で飲み込んでいった(台湾・韓国)。
日本国民としては、清国のようにむちゃくちゃに収奪されなかったことを感謝すべきだろう。ただ、私は、日本の近代化がうまく進んだのは薩長土を中心とする勢力が明治維新を確立して近代化・産業化を強引に進めたことだけが功績ではなくて、江戸時代後半に欧米とは違う形で、政治経済を支える産業基盤や交通網などが確立したことが土台になっていると見ている。
で、松岡正剛のネーションステート=国民国家観である。
うわーっ……二十歳になる直前にアムネスティ・インターナショナルという団体を知り、国家に人権を抑圧されている人たちの事例を四半世紀も見てきた自分には、しっくり来ることを言われたなぁ。そう、国家とは、もともと暴力装置なのだ。近代国家とは、王政など少数による支配体制を覆す過程で生まれた、ひとつの形態だ。いちおう民族国家に近いのだが、国民国家は民族国家と同一ではなくて、国内に少数民族の離反や独立運動などのリスクを抱え込んでいる。
少数民族も含め、国民国家において国の方針とは異なる意見を持っている人にどう対処するか、ということが、自分の世界観には関心事のひとつ。たとえば、アウン・サン・スーチーさん。国家が暴力装置であること、その暴力装置が外に向かった時には侵略戦争となり、内に向かった時には甚だしい人権侵害となることを、憂慮をもって見てきている。
で、近代国家と資本主義と民主主義の行き着く先はどうなるんでしょうね……本来の共産主義ではなかった共産主義国家は、かなりの確率で崩壊した(北朝鮮はともかく、自分はロシア崩壊後のキューバがどうなるのか、心配しつつも期待している)。資本主義の怖いところは、利益を追求する過程で、止め処がつかないということに尽きると思うのだが。
『誰も知らない世界と日本のまちがい 自由と国家と資本主義』松岡正剛(春秋社)
英語タイトルが"The Errors of Nation States"である。腰巻きには「大人は、読まなきゃいけません。禁断の世界史講義、開幕。世の初めから隠されていた秘密が明らかになる……。」と、ちょっとアレな感じな惹句(汗)。でもオカルト系ではありません。
幕末から明治維新、さらに19世紀から20世紀の歴史に興味を持つ者にとって、気になるひとつの問いが「近代国家(Nation State)とは何か」ということだ。
最近読んだ本の中でひとつの答えは、下記の本にあった。
『幕末・維新―シリーズ日本近現代史〈1〉』井上勝生 (岩波新書)
ペリー来航からわずか10年ほどの明治維新を経て、維新政府が目指したのは欧米の近代国家というグローバルスタンダードにのっとって自国を整備したことだった。すなわち、自国の国民を確定するために戸籍を整え、国境を確定し(ロシアとは、結局、戦争を経てしか国境を確定できなかったが)、逆に自国の領土と認識する自国の領域内にいる少数民族を近代国家の理論でもって囲い込み(アイヌを想定しているが、まさしく米国政府がアメリカンインディアンに対した政策とよく似ている)、さらに周辺各国で欧米のグローバルスタンダードに抵抗する国を欧米の理屈で飲み込んでいった(台湾・韓国)。
日本国民としては、清国のようにむちゃくちゃに収奪されなかったことを感謝すべきだろう。ただ、私は、日本の近代化がうまく進んだのは薩長土を中心とする勢力が明治維新を確立して近代化・産業化を強引に進めたことだけが功績ではなくて、江戸時代後半に欧米とは違う形で、政治経済を支える産業基盤や交通網などが確立したことが土台になっていると見ている。
で、松岡正剛のネーションステート=国民国家観である。
いまは、このことの深い意味についてはあえて解説しませんが、私自身はこの指摘は大筋あたつていると思っています。国家はもともと暴力装置であり、それをどのように合法化していくかということを工夫しているうちに、今日のような近代国家が仕上がった。どうやらそう見るべきなんですね。
ということは、ネーション・ステートとは、ずばり一言で定義するなら「戦争ができる国民国家」のことなんです。警察や裁判を国が引き受けるという事情には、こういうことがひそんでいたんですね。
うわーっ……二十歳になる直前にアムネスティ・インターナショナルという団体を知り、国家に人権を抑圧されている人たちの事例を四半世紀も見てきた自分には、しっくり来ることを言われたなぁ。そう、国家とは、もともと暴力装置なのだ。近代国家とは、王政など少数による支配体制を覆す過程で生まれた、ひとつの形態だ。いちおう民族国家に近いのだが、国民国家は民族国家と同一ではなくて、国内に少数民族の離反や独立運動などのリスクを抱え込んでいる。
少数民族も含め、国民国家において国の方針とは異なる意見を持っている人にどう対処するか、ということが、自分の世界観には関心事のひとつ。たとえば、アウン・サン・スーチーさん。国家が暴力装置であること、その暴力装置が外に向かった時には侵略戦争となり、内に向かった時には甚だしい人権侵害となることを、憂慮をもって見てきている。
で、近代国家と資本主義と民主主義の行き着く先はどうなるんでしょうね……本来の共産主義ではなかった共産主義国家は、かなりの確率で崩壊した(北朝鮮はともかく、自分はロシア崩壊後のキューバがどうなるのか、心配しつつも期待している)。資本主義の怖いところは、利益を追求する過程で、止め処がつかないということに尽きると思うのだが。