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カオスを描いた葛飾北斎の謎
第1回 世界的な傑作、「神奈川沖浪裏」の大波
古い体質に馴染めなかったからこそ名作は描かれた
北斎は1760年、本所割下水(東京・墨田区内)に生まれ、14~15歳で彫刻師について版刻術を学んだ。19歳の時、役者絵界のリーダー・勝川春章(1726~92)の門に入る。やがて北斎は勝川春朗を名乗り、役者似顔絵や黄表紙の挿絵を手がける。しかし、同門の勝川春好とそりが合わず、1794年に勝川派を破門にされる。
次に春朗は御用絵師・狩野融川の門をたたくが、ここでも問題発言をし、師を怒らせ、破門にされる。進取の気性に富む春朗は、旧弊な体質に馴染めなかったのだ。
京都では、写生派の円山応挙(1733~95)が眼鏡絵(めがねえ)を描き、浮絵風の風景画を発表していた。別名くぼみ絵という浮絵とは、西洋画の技法である線遠近法(消失点を1点に絞る)を取り入れた日本独自の描法である。
江戸でも歌川豊春が西洋銅版画を参考に浮絵を開拓していた。
狩野派を追われた春朗は、1795年に大和絵装飾画の作風と琳派の画風などあらゆる画法修得に努めた。既に黄表紙の挿絵の仕事は減っていたが、代わって狂歌絵本や摺物の仕事が舞い込んできた。
この頃、春朗は雪舟の画風に通じ、安土桃山時代の雲谷等顔系の町絵師・三世堤等琳と知り合うことになる。等琳は、幟画(のぼりが)・祭礼の絵・行燈(あんどん)・摺物・うちわなど、実用に即した仕事を一手に引き受け、絵師仲間ではかなりの勢力を誇っていた。実用を伴う仕事柄、注文は多く、弟子も集まり、江戸や地方の神社仏閣にまで出張して絵馬額や欄間などの彩色を手がけていた。
何にもとらわれない一介の町絵師・等琳と北斎はうまが合い、北斎は師の等琳からあらゆる恩恵を受けている。
『富嶽三十六景』のうちの名作、「山下白雨」や「凱風快晴」の山肌に見える点描は雲谷派の秘伝の画法であったが、これも等琳から伝授されたと言われる。さらに、北斎の風景画に決定的な影響を与えたのは、日本で最初の腐食銅版画を開発した司馬江漢(1747~1818)だった。
おぉ、みなもと太郎の大河歴史コミック『風雲児たち』のファンには、印象深い司馬江漢の名前が出てきたぞ。
浮世絵から出発した江漢は、伝統的作風にあきたらず、研鑽(けんさん)の末、1783年に本格的な腐食銅版画の大作『三囲景(みめぐりのけい)』(神戸市立博物館蔵)を発表した。
江漢が銅版画を開発したきっかけは、秋田蘭画の小田野直武の風景画であったようだ。直武の『江の島図』(個人蔵)や『不忍池図』(秋田県立近代美術館蔵)である。また、白雲たなびく富士図に、近景に丸い木橋と松の木、2人の人物を取り入れた『富嶽図』(秋田市立千秋美術館蔵)、壮麗な富士と、品川の海に浮かぶ帆船の船尾で舵を握る漁夫を描いた『品海帰帆図』(個人蔵)。これら直武の描く富士図が江漢に大きな影響を与えた。
その江漢はといえば、なお完全な銅版画研究のため、1788~89年4月までの1年間、長崎に遊学。出島のオランダ商館館長や医師から銅版画技法を学び、併せてオランダで出版された当時画法の最高の参考書だったジェラール・ド・ライレッセ著『画法大全』も手に入れていた。
江戸に帰った江漢は、長崎遊学の成果を画面にたたきつけた。例えば、紙本墨画淡彩の腐食銅版画『富岳図』(早稲田大学中央図書館蔵、上写真)。東海道興津(静岡県)の海辺から薩陀山(さったさん)を左手近景にした富士図である。海に帆掛け舟が浮かび、砂浜に打ち寄せる波の表現が銅版画を完全に修得した結果、いっそうリアルで精緻になっている。この動きのある波の描法は、明らかに北斎の興味をとらえた。
こうして西洋画と漢画の折衷を取る秋田蘭画の創始者・小田野直武、彼に影響を受けた洋風銅版画の開拓者・司馬江漢、そして北斎へと富士図は受け継がれ、北斎は富士をテーマとした一連の風景画を描いていったのである。
この辺りは、『風雲児たち』愛蔵版全20巻を何度も読み返しているファンにはお馴染み……司馬江漢と同じく、小野田直武も、名前を見た途端にキャラが思い出せると思う(笑)。
第2回 北斎が司馬江漢から学んだもの
それは大自然と対峙して働く人間の姿だった
日本で初めて銅版画による風景画を描き、西洋画法と油彩に積極的に取り組んだ司馬江漢は、寛政後期(1790年代後半)、再び日本の伝統的な墨や絵の具を用いて、次々と富士図を描き、全国各地の神社仏閣に奉納していった。これは自己宣伝というより、洋風画を宣伝する目的であったようだ。
そして、みなもと太郎キャラの司馬江漢に慣れてしまうと、「これは自己宣伝というより、洋風画を宣伝する目的であったようだ」という一文に、「いーや、自己宣伝の方が目的だったんじゃないかっ?」とツッコミを入れてしまうと思う^_^;。
それにしても「上総木更津浦之図」、構図こそは浮世絵の画風であってもおかしくないけど、遠近感といい立体感といい、確かに伝統的な日本絵画に見られない写実性があるなぁ。
一方、江戸時代の浮世絵に見られる魅力は、写実性よりもドラマ性を重視した大胆な構図やデフォルメにあると私は思う。
今ちょうど安藤広重の『江戸百景』に関する解説本を読んでいるところだが、たとえば「
深川萬年橋」。たとえば橋の上に置かれた手桶の取っ手を絵画のフレームワークに重ね、取っ手に吊された亀を大きく描く構図。それによって、欄干の向こうに流れる大川(隅田川)と船、さらにその遠景にある富士山と、「近景-遠景-さらに遠景」という三段階の構造が描かれる。写真のように写実的な描写だったら、こんな風に描けるのだろうか。
大波を右側に描いた5.の「賀奈川沖本杢之図」と平仮名落款「おしおくりはとうつうせんのづ」は、いずれも大波に流されまいと必死に櫓を漕ぐ五大力船や押送り舟の船頭たちをとらえた構図であるが、まだ視点が高い。だが波頭を誇張させ、大波の裏側まで描き込んでいる。「賀奈川沖本杢之図」では、左方に海岸線まで延びる崖が描かれているから、明らかに現在の横浜市本牧あたりであると思われる。
「賀奈川沖本杢之図」と「おしおくりはとうつうせんのづ」で巨大な波を研究し尽くした北斎は、大波と富士と舟の3つの要素を効果的に配することを自分のものとしており、この時点ですでに将来の大作を描くことを予兆させるのである。
北斎の作品も、遠近法よりもむしろ大胆なデフォルメによってドラマ性を強調するところが、面白いと思う。しかし、その一方で、その北斎が西洋絵画の遠近法や写実性を重視した司馬江漢や小野田直武に影響を受けたという指摘、面白い。