ネタは降る星の如く

とりとめもなく、2匹の愛猫(黒・勘九郎と黒白・七之助)やレシピなど日々の暮らしのあれこれを呟くブログ

『感じない子ども こころを扱えない大人』袰岩奈々

2007-04-29 20:52:18 | 読書
『感じない子ども こころを扱えない大人』袰岩奈々(集英社新書) リンク先はamazon.co.jp

 今週、ドイツ人講師からお墨付きをもらおうとして英語版で講師役にチャレンジした研修の内容と、よく似ていた。

 できるだけ簡単に言うと、人は大人になるまでに感情(特にネガティブな感情)を表に表さないように教育されてしまうことが多いが、人は子供だろうと大人だろうといつでもポジティブな感情ばかりを持っているわけではないし、ネガティブな感情を感じてはいけないものとして抑圧し続けてしまうことによって自分の本来の感情に気づかなくなる、というのが趣旨。失望・落胆・嫉妬・憎悪・疲労感など、ネガティブな感情を持つ自分も肯定した上で、それをどのように伝えることによって自分の感情への感受性を摩滅させないかということに取り組んでいる。

 自分自身は、ドイツから輸入しようとしている例の研修のおかげで、ネガティブな感情を相手の感情を損ねないようにしつつも伝える方法を学んだ。それで、25年来の葛藤に対処する方法がわかり、だいぶ心が軽くなった。

 特に子供を持った親に読んで欲しいと思う本だ。


2度目の本番はぼろほろだったけど……

2007-04-27 23:10:16 | しごと
 今日は英語でコミュニケーションと協力とリーダーシップを学ぶ研修の最終日。そして、私が講師としてお墨付きをもらえるかどうかがかかっている2回目の本番。

 ……事件は起こった(汗)。25年もこの研修の講師を勤めているドイツ人講師にとっても、今までほとんど経験したことのない演習結果が、よりによって仮免手前の自分が担当している演習の中で起こった。

 前日まで緻密に練習していたシナリオが使えない状況になって、頭は真っ白。途中で降板してドイツ講師の師匠に収拾してもらわざるを得なかった。

 自分のふがいなさゆえにお墨付きがもらえないという失態をまた迎えるのかと負うと、目の前が真っ暗になった。

 去年9月にチャレンジして失敗して以来、準備に準備を重ねて、今回もお墨付きがもらえないかも知れないという事態に心の準備をしていた。何しろ、この4日間、褒めてもらえず、ひたすら具体的に改善すべきポイントを指摘され続けていたのだから。

 今回お墨付きをもらうためにつくった3人チームの残りふたりが、「彼は、本心では、日本語版をつくることに対して快く思ってなくて、自分たちを潰すつもりでネガティブなことしか言わないのではないか」と疑心暗鬼に陥った時も、自分は、自分たちをプロの講師として養成したいからこそ厳しい指摘をしてくれていたんじゃないかとバランス感覚を持っていた。

 一方で、この研修の日本語化プロジェクトの責任者として、もし今回お墨付きをもらえなかった時の対応策も考えもした。

 そして、「もう後は3人チームの皆が日本語版で経験を積むことでしか技量のレベルを上げることはできないから、どんどんやりなさい」というお墨付きが出た時、涙が出そうになった。「この4日間は今後の皆の技量を向上させるために厳しいことしか言わなかったけど、自分があなたたちにしてやれることはそれだけだから」とも。

 文化の違いを超えて、人はわかりあえる、と楽観的に言う人もいる。結局はわかりあえないのだ、と、悲観的になったり、開き直ったりする人もいる。

 現実は、そのどちらもあり得る。そして、「文化の違い」を口実に諦めたり開き直ったりせずに、その相手が個人的に信頼できるかどうか、自分が相手と個人敵信頼することにリスクを負うかどうか、という個別のケースの積み重ねだ。

 でも、最終的に、彼が自分たちを潰そうとして厳しい指摘をしたのではなく、今後のためによかれと思ってあえて厳しい指摘をしたという意図がわかって、自分の読み通りだということもあって、ほっとした。すべての他人を無限に信頼できるほど肝が据わっていない自分だが、文化の違いを超えて、自分の目で観察した相手の行動が信じられるか否かという直感は、正しかった。

 待望のお墨付きがもらえたところで、ゴールデンウィーク休暇。今週は、普段痛まない胃が痛んだり、昨夜は午前3時半に目が覚めてから十分に寝付かれなかったり、それなりにプレッシャーもあって緊張が身体に出る週だった。休暇中に、リラックスして疲労を払拭したい。

何と、葛飾北斎に司馬江漢の影響とな

2007-04-26 20:48:02 | 趣味
 主にビジネス関係の記事を見ている日経オンラインだが、たまにこんな記事もある。

カオスを描いた葛飾北斎の謎
第1回 世界的な傑作、「神奈川沖浪裏」の大波
古い体質に馴染めなかったからこそ名作は描かれた

 北斎は1760年、本所割下水(東京・墨田区内)に生まれ、14~15歳で彫刻師について版刻術を学んだ。19歳の時、役者絵界のリーダー・勝川春章(1726~92)の門に入る。やがて北斎は勝川春朗を名乗り、役者似顔絵や黄表紙の挿絵を手がける。しかし、同門の勝川春好とそりが合わず、1794年に勝川派を破門にされる。

 次に春朗は御用絵師・狩野融川の門をたたくが、ここでも問題発言をし、師を怒らせ、破門にされる。進取の気性に富む春朗は、旧弊な体質に馴染めなかったのだ。

 京都では、写生派の円山応挙(1733~95)が眼鏡絵(めがねえ)を描き、浮絵風の風景画を発表していた。別名くぼみ絵という浮絵とは、西洋画の技法である線遠近法(消失点を1点に絞る)を取り入れた日本独自の描法である。

 江戸でも歌川豊春が西洋銅版画を参考に浮絵を開拓していた。

 狩野派を追われた春朗は、1795年に大和絵装飾画の作風と琳派の画風などあらゆる画法修得に努めた。既に黄表紙の挿絵の仕事は減っていたが、代わって狂歌絵本や摺物の仕事が舞い込んできた。

 この頃、春朗は雪舟の画風に通じ、安土桃山時代の雲谷等顔系の町絵師・三世堤等琳と知り合うことになる。等琳は、幟画(のぼりが)・祭礼の絵・行燈(あんどん)・摺物・うちわなど、実用に即した仕事を一手に引き受け、絵師仲間ではかなりの勢力を誇っていた。実用を伴う仕事柄、注文は多く、弟子も集まり、江戸や地方の神社仏閣にまで出張して絵馬額や欄間などの彩色を手がけていた。

 何にもとらわれない一介の町絵師・等琳と北斎はうまが合い、北斎は師の等琳からあらゆる恩恵を受けている。

 『富嶽三十六景』のうちの名作、「山下白雨」や「凱風快晴」の山肌に見える点描は雲谷派の秘伝の画法であったが、これも等琳から伝授されたと言われる。さらに、北斎の風景画に決定的な影響を与えたのは、日本で最初の腐食銅版画を開発した司馬江漢(1747~1818)だった。


 おぉ、みなもと太郎の大河歴史コミック『風雲児たち』のファンには、印象深い司馬江漢の名前が出てきたぞ。

 浮世絵から出発した江漢は、伝統的作風にあきたらず、研鑽(けんさん)の末、1783年に本格的な腐食銅版画の大作『三囲景(みめぐりのけい)』(神戸市立博物館蔵)を発表した。

 江漢が銅版画を開発したきっかけは、秋田蘭画の小田野直武の風景画であったようだ。直武の『江の島図』(個人蔵)や『不忍池図』(秋田県立近代美術館蔵)である。また、白雲たなびく富士図に、近景に丸い木橋と松の木、2人の人物を取り入れた『富嶽図』(秋田市立千秋美術館蔵)、壮麗な富士と、品川の海に浮かぶ帆船の船尾で舵を握る漁夫を描いた『品海帰帆図』(個人蔵)。これら直武の描く富士図が江漢に大きな影響を与えた。

 その江漢はといえば、なお完全な銅版画研究のため、1788~89年4月までの1年間、長崎に遊学。出島のオランダ商館館長や医師から銅版画技法を学び、併せてオランダで出版された当時画法の最高の参考書だったジェラール・ド・ライレッセ著『画法大全』も手に入れていた。

 江戸に帰った江漢は、長崎遊学の成果を画面にたたきつけた。例えば、紙本墨画淡彩の腐食銅版画『富岳図』(早稲田大学中央図書館蔵、上写真)。東海道興津(静岡県)の海辺から薩陀山(さったさん)を左手近景にした富士図である。海に帆掛け舟が浮かび、砂浜に打ち寄せる波の表現が銅版画を完全に修得した結果、いっそうリアルで精緻になっている。この動きのある波の描法は、明らかに北斎の興味をとらえた。

 こうして西洋画と漢画の折衷を取る秋田蘭画の創始者・小田野直武、彼に影響を受けた洋風銅版画の開拓者・司馬江漢、そして北斎へと富士図は受け継がれ、北斎は富士をテーマとした一連の風景画を描いていったのである。


 この辺りは、『風雲児たち』愛蔵版全20巻を何度も読み返しているファンにはお馴染み……司馬江漢と同じく、小野田直武も、名前を見た途端にキャラが思い出せると思う(笑)。

第2回 北斎が司馬江漢から学んだもの
それは大自然と対峙して働く人間の姿だった

 日本で初めて銅版画による風景画を描き、西洋画法と油彩に積極的に取り組んだ司馬江漢は、寛政後期(1790年代後半)、再び日本の伝統的な墨や絵の具を用いて、次々と富士図を描き、全国各地の神社仏閣に奉納していった。これは自己宣伝というより、洋風画を宣伝する目的であったようだ。


 そして、みなもと太郎キャラの司馬江漢に慣れてしまうと、「これは自己宣伝というより、洋風画を宣伝する目的であったようだ」という一文に、「いーや、自己宣伝の方が目的だったんじゃないかっ?」とツッコミを入れてしまうと思う^_^;。

 それにしても「上総木更津浦之図」、構図こそは浮世絵の画風であってもおかしくないけど、遠近感といい立体感といい、確かに伝統的な日本絵画に見られない写実性があるなぁ。

 一方、江戸時代の浮世絵に見られる魅力は、写実性よりもドラマ性を重視した大胆な構図やデフォルメにあると私は思う。

 今ちょうど安藤広重の『江戸百景』に関する解説本を読んでいるところだが、たとえば「深川萬年橋」。たとえば橋の上に置かれた手桶の取っ手を絵画のフレームワークに重ね、取っ手に吊された亀を大きく描く構図。それによって、欄干の向こうに流れる大川(隅田川)と船、さらにその遠景にある富士山と、「近景-遠景-さらに遠景」という三段階の構造が描かれる。写真のように写実的な描写だったら、こんな風に描けるのだろうか。

 大波を右側に描いた5.の「賀奈川沖本杢之図」と平仮名落款「おしおくりはとうつうせんのづ」は、いずれも大波に流されまいと必死に櫓を漕ぐ五大力船や押送り舟の船頭たちをとらえた構図であるが、まだ視点が高い。だが波頭を誇張させ、大波の裏側まで描き込んでいる。「賀奈川沖本杢之図」では、左方に海岸線まで延びる崖が描かれているから、明らかに現在の横浜市本牧あたりであると思われる。

 「賀奈川沖本杢之図」と「おしおくりはとうつうせんのづ」で巨大な波を研究し尽くした北斎は、大波と富士と舟の3つの要素を効果的に配することを自分のものとしており、この時点ですでに将来の大作を描くことを予兆させるのである。


 北斎の作品も、遠近法よりもむしろ大胆なデフォルメによってドラマ性を強調するところが、面白いと思う。しかし、その一方で、その北斎が西洋絵画の遠近法や写実性を重視した司馬江漢や小野田直武に影響を受けたという指摘、面白い。

本番後

2007-04-25 20:09:07 | しごと
 ベストは尽くした。去年の9月のメタメタ状況に比べれば、随分とうまくできた。

 でも、具体的にできなかったことを指摘されて、それはそうだなとも思う。

 自分が日本語でできたと思う状態から比べると、せいぜい50パーセント。でも、英語だったからという言い訳は通用しない。

 今の時点で合格をもらえるかどうかは微妙。

 あともう一回、明後日の本番に備えて、今から準備するしかない。

本番前

2007-04-25 07:43:30 | しごと
 日曜日から東京入りし、昨日から行われている4日間の英語でのリーダーシップ研修の一部を日本人スタッフ3人で講師役を務めている。日本語版の開発にあたって、師匠であるドイツ人講師から英語版でのお墨付きをもらうことが条件になっているためだ。

 去年の9月はぼろぼろで、今回が再挑戦。昨日は仲間のふたりが一部のプログラムの進行を務め、まぁまぁの評価を得ながらも随分といろいろな修正のコメントをもらった。

 今日は私の出番。去年の9月にこのパートを務めた時にはぼろぼろだったし、月曜日のリハーサルでも一番ぼろぼろだった(汗)。月曜日の夜から立て直しに入っているが、どこまで修正できたか。

『靖国史観――幕末維新という深淵』小島毅

2007-04-18 22:25:22 | 読書
『靖国史観――幕末維新という深淵』小島毅(ちくま新書) リンク先はamazon.co.jp

 出たばかりの本だ。パラ読みという感じではあったが、とにかくも読み通した。会沢正志斎に代表される水戸学、美濃部辰吉の天皇機関説などと時系列的にはかなり飛ぶ思想の紹介があったりして、ちょっと読みにくい。

 それでも、東国出身者だからか、幕末維新の歴史にはまってしまったからか、通説的な明治維新についての歴史観に違和感を抱く、ごくごく少数派と思われる自分のような読者には、なかなか面白い新書だ。

 あとがきから、一部引用。

 新撰組組長だった近藤勇を東京裁判よりひどい一方的な断罪で復讐刑的に斬首し、会津で交戦した白虎隊をふくむ軍人たちのまともな埋葬すら許さぬままに、敵の本営だった仲間の戦死者の慰霊祭を行った連中。靖国を創建させたのはこういう人たちであった。

(中略)
 
 靖国問題が国際問題でなく国内問題だと私が主張するのはそういうわけである。戊辰戦争以来の未解決の歴史問題が、ここにはある。
 長州藩は京都御所に発砲したことを謝罪したか?
 薩摩藩は江戸市中に放火したことを謝罪したか?


 ……えーと、私は「新撰組」でなくて「新選組」と記述するし、「組長」でなくて「局長」と自称していたことを重くみるのだが(京都守護職だった会津藩主松平容保のお預かりで、守護職を補佐する公用局の外局というアイデンティティゆえ「局長」だった)。

 「中略」とした箇所と引用箇所以降には、引用箇所以上になかなか刺激的な文章(汗)があるのだが……引用した箇所だけ取っても、十分に刺激的だ(汗)。

テンプレ変更

2007-04-18 07:30:00 | Weblog
 ソメイヨシノはほぼ葉桜になったことだし、そろそろ牡丹の開花の季節に入るということで、テンプレ変更。

 今のところ、このテンプレが一番好きだなぁ……ふと気づくと、このシーズンにこのテンプレを選ぶのは3回目。2005年2月から始めているこのブログも、気が付けばとうに満2年を過ぎているのだった^^;。

座右の銘

2007-04-17 19:53:28 | しごと
 「座右の銘」と聞かれると、答えに悩む。あまり意識しないで来たからなぁ……(^^ゞ。

 強いて言えば、画家フランシスコ・ゴヤの作品名『俺はまだ学ぶぞ』か。

'I am Still Learning(Aun Aprendo).' カッコ内はスペイン語で、uの上にアクセント記号がある。

 学生時代に読んで印象に残った本のひとつが『ゴヤ』堀田善衛だった。18世紀から19世紀に移行する時代、フランス革命・ナポレオンによるスペイン侵略とレジスタンスの時代に生まれた宮廷画家ゴヤは、宮廷や貴族の注文を受けて作品を描くことから自己表現のために作品を描くことにスタンスを変え、近代画家の草分けとなった。晩年のゴヤは、スペインからフランスに亡命したのだが、白髪で腰が曲がった80代の自画像に「俺はまだ学ぶぞ」と題名をつけた。

『ゴヤ(1)スペイン・光と影』
『ゴヤ(2)マドリード・砂漠と緑』
『ゴヤ(3)巨人の影に』
『ゴヤ(4)運命・黒い絵』 リンク先はいずれもamazon.co.jp

 80歳にして、学ぶことへの強烈なバイタリティ。人材育成に携わる者として、ゴヤのその姿勢にあやかろうと、座右の銘はゴヤの言葉からいただいている。

 ちなみに、堀田善衛の『ゴヤ』からは、近代国民国家の先陣を切ったフランスの国民軍が他国を解放と称して侵略したこと、王制が続き近代化が遅れた被侵略国では最初は解放軍としてフランス軍を歓迎したものの、やがてフランス軍は抵抗派の非戦闘員も殺すようになり、抵抗運動は国土全体にゲリラ活動として広がった(ちなみに「ゲリラ」という単語はスペイン語で「小戦争」という意味で、この時に生まれた)ことを学んだ……という意味で、私の近現代国家観に影響している。

 詳しくはWikipedia「半島戦争(スペイン独立戦争)」の項を参照。この項に紹介されているゴヤの『1808年5月3日、プリンシペ・ピオの丘での虐殺』は、近代国民国家の創成期にすでに包含されていたネガティブな側面を描き、ゴヤ作品の中でも一番の傑作だと思う。

 こうして書いてみると、フランスが19世紀初頭にイベリア半島でやったことは、米国がベトナムや中東でやってきたことと、何ら変わらんなぁ……(嘆息)。

エンゲージメント

2007-04-16 20:54:17 | しごと
 先日の英語でのレクチャーで、「日本人にとって雇用は単なる契約ではなく長期のエンゲージメントだ」と説明した。

 改めて、エンゲージメントとは。

Human Valueのサイト:エンゲージメント
 エンゲージメントという言葉は、辞書では「engagement . 約束、約定、婚約、用務、交戦、かみ合い、債務」(「新編英和活用大辞典」研究社)と記されています。これは「強い結びつきや絆」を表す言葉です。
 個人と組織の『エンゲージメント』とは、「組織(会社)」と「個人(社員・構成員)」が一体となって、双方の成長に貢献しあう関係のことをいいます。
具体的に、組織と個人がエンゲージメントしている状態は以下のような姿ではないでしょうか。

・「個人の成長や働きがいを高めることは、組織の価値を高める」という捉え方に基づいて仕事を行い、それを実感している
・「組織が成長することが、個人の成長や働きがいを高める」という捉え方に基づいて仕事を行い、それを実感している


 今や日本の雇用慣行が変わってしまったので現状では当てはまらないが、日本の戦後の長期雇用の慣行はまさしくこの「エンゲージメント」を前提とした仕組みであったのだと思う。そして、江戸時代に大店《おおだな》で用いられた雇用の仕組みも、エンゲージメントを利用しつつも、10年単位で人を篩にかける仕組みを組み合わせており、雇う側にとっては実に有利なエンゲージメントの仕組みだったんだなぁと思う。

 雇用について様々な形態が出てきた今は、雇用形態が違うワークフォースに対して、異なる形のエンゲージメントが必要なのかな……まだ、具体的な形は見えないが。


リーダーシップ・パイプライン

2007-04-16 20:50:04 | しごと
 やっと自分の仕事の実態に近い話題になってきた……。

野々村人事部長の歳時記
 日本企業のリーダーは自信と信頼を取り戻せるのか?
 野々村さんたち、管理職にとっては驚きのデータがある。
マルコーだけでなく、日本企業の多くのリーダーが自信を失っているのだ。世界各国でリーダーシップ研修を提供しているDDI社の調査によると、日本企業のリーダー(現場リーダー、ミドル、経営層のすべてを指す)の6%しか、リーダーとしての自分に高い自信をもっていないという。日本人は謙遜する傾向があることを勘案しても、調査対象国42カ国の平均の54%と比べると、日本企業リーダーの精彩のなさが際立っている。

 そんな日本企業のリーダーたちを、部下たちはどう思っているのか?人事・組織コンサルティングを世界各国で行っているタワーズペリン社の調査によると、上司である管理職や経営者のマネジメントの質が低いと答えた割合は、日本では回答者全体の40%に達する。これは、調査対象16カ国中、最も高い値。つまり、日本企業の上司は、部下から管理職として世界でもっとも信頼されていないのだ。

●リーダーの経験をする機会が減ったことが原因
 どうして日本のリーダーは“自信”も“信頼”も失ってしまったのか?野々村さんの疑問に答えるべく、現場の声を総合すると次のようなことが言えそうだ。

 まず、成果主義の浸透で、プレーヤーも兼ねるプレイング・マネジャーが増えている。そのため、リーダーとしての意識を高めることができない。リーダーとして組織を束ねたり、部下を育てたりすることより、自分自身や自部門の業績を強く問われるため、どうしても目先の成績に目がいってしまう。結果として、いつまでも“優秀なプレーヤー”の域を出ることができない。

 事業の縮小や組織のフラット化で、リーダーの経験を積めるポジションが減ってしまったことも痛い。最近、部長代理、担当課長、グループーリーダーといった、どんな権限と責任があるのか、名刺を見ても分からない人が増えている。予算と人事を決める立場にならないと、真の組織リーダーとして意思決定、行動する経験はできないものだ。

 また、日本企業のリーダーシップ教育は、実践の場を盛り込んだものが少ない。先程引用したDDI社の調査では、会社が提供するプログラムの中で、リーダーシップを磨くのに「とても役立った」と答えた人の割合が一番高いのは、「プロジェクト活動」で、全体の半数以上に達する。ただ、実際にプロジェクト活動の場を設けている企業は、日本では10%と調査対象国平均の26%に対し半分以下。

 実際の仕事でも、教育プログラムでも、日本企業のリーダーたちは、リーダーとして実践の経験を積む機会に恵まれていない。DDI社の調査では、日本企業の回答者全体の7割は、リーダーの役割を経験する機会に満足していない。

●リーダーは自然に任せても育たない

(中略)
 内外の著名な経営者は、「人は経験を通じてリーダーとして育っていく」と、指摘している。ゼネラル・エレクトリック(GE)の前会長兼CEOのジャック・ウェルチ氏は、「われわれが経営しているのは、優秀なリーダーを育て上げるための人材工場なのだ」と、経営者の第一の役割は次のリーダーを育てることだと言い切っている。実際、ウェルチ氏は、現役時代には毎年クロトンビル研修所(GEの企業内大学)で自ら教壇に立ち、そこで直接参加者たちを指導することに心血を注いでいた(出所:『ジャック・ウェルチわが経営』ジャック・ウェルチ、ジョン・A・バーン著 日本経済新聞社)。

 また、経営の神様、松下幸之助翁も、「人は鍛えられることによっていくらでも成長する。だから指導者は、人を鍛えることに大いに意を注がなくてはならない」と、指導者が自分の後進を育てることの大切さを説いている(出所:『指導者の条件』松下幸之助著 PHP文庫)。


 その通り。研修部門がどんなに頑張っても、その前後に仕事でリーダー経験を積まなければ、リーダーとして自分が適切な行動を取っているかを顧みる意識も持てないし、研修で学んだこと(習ったこととは限らない……リーダー教育は、職階が上になればなるほど、実地で得た体験を振り返って自分に問い直すという「学び」の行動が必要だ)を現場で発揮する機会も得られない。逆に、研修などの場で理論を学んだり自分の体験を振り返る機会を持たなければ、リーダーとしては経験からの蓄積から来る体験論だけで終わってしまう。

 だから、このコラムでも言われている「リーダーシップ・パイプライン」を、現場と研修・人材開発部門とのパートナーシップの下に、現場の仕事と学びの場を組み合わせてデザインして提供することが、重要だ。

 自社のことを考えると、先日、ある事業部のアジア太平洋地域の事業部長の会合に出た時に、各国・各地域の事業部長が主に現地出身の30代後半の若い人たちに世代交替していることに愕然とした。日本の事業部にいると、事業部長は50代になって「上がり」のポジションになってしまうのだ……もっと、若いリーダー候補を積極的に育てなければ。