自分が言いたいことを、立花御大がズバッと言ってくれて、すっきり。
立花隆の「メディア ソシオ-ポリティクス」
第93回 未熟な安倍内閣が許した危険な官僚暴走の時代
大組織をひきいるリーダーシップ能力はどこで発揮されなければならないのかといえば、人事である。大組織はトップダウンで一から十まで動かすことはできない。政策もトップがすみずみまで差配をふるうことはとてもできない。自分が経験不足であればあるだけ、当然、要所要所にそれを補うだけのベテランないし実力派の人材が配されなければならないのに、安倍首相は自分が位負けしてしまうことを恐れたのか、自分と同程度の人材をならべて内閣を作ってしまった。
(中略)
結局なぜ安倍首相が的場を官房副長官すえたのかよくわからないまま様子見をしていた官僚たちも、すぐに、的場の力を見抜いてしまったので、的場は田中内閣時代の後藤田官房副長官とは逆の立場になりつつある。つまり、存在感がどんどんなくなり、おさえがきかなくなって現場の官僚たちに逆に仕切られてしまっているということだ。
そういう状況下で、安倍首相も必然的に高級官僚たちになめられてしまっている。
この辺りは、テレビを余り見ない自分には余りわからないのだけど、以下はネットのニュースを読んでいるだけでもわかる。
しかし、安倍首相には、その能力がまた抜本的に欠けているらしい。安倍内閣は、ミスキャストの高官たちがいっぱいである。
本日、例の怪しい政治資金団体問題で辞任のやむなきにいたった佐田玄一郎行革担当相などもその典型だろう。事がはじめて明るみに出た昨日夜、記者団に取り囲まれて、次々に質問を受け、「いま調べているところですので・・・」としか返答することができず、ただただシドロモドロになっていく一方の佐田行革担当相を見ながら、「これでも大臣かよ・・・」と毒ずきたくなった。
つい数日前、愛人と官舎に同棲していたことがバレて辞任のやむなきにいたった本間正明政府税調会前会長にしても同じだ。みっともない記者会見だった。あの醜態を見ながら安倍首相は、どこか人を見る目が根本的に欠けているのではないか、と思った。おまけに、情勢判断能力も弱いようだ。
本間前会長の一件が週刊誌に見事に暴かれたとき、マスコミ関係者はみないっせいにこれはヤバすぎると判断していた日の夕方の会見で、安倍首相は本間氏を擁護して、「今後は立ち直って立派に職責を果たしてくれるものと期待しています」などとトンチンカンなことを述べていた。
本間氏が辞任したあとの後任人事も、まるで解せない。選ばれたのは、香西泰日本経済研究センター特別研究顧問。この人もまた73歳というご老人で、もはや現役の経済学者ではない。「特別研究顧問」などという肩書きは、単なる名誉職ということである。
だが、何より、今回の記事で共感できたのは以下のところだ。
実はそんなこと以上に、私がかねがね安倍首相の政治家としての資質で疑問に思っているのは、彼が好んで自分が目指す国の方向性を示すコンセプトとして使いつづけている「美しい国」なるスローガンである。情緒過多のコンセプトを政治目標として掲げるのは、誤りである。
だいたい政治をセンチメンタリズムで語る人間は、危ないと私は思っている。
政治で何より大切なのは、レアリズムである。政治家が政治目標を語るとき、あくまでも「これ」をする、「あれ」をすると、いつもはっきりした意味内容をもって語るべきである。同じ意味を聞いても、人によってその意味内容のとらえ方がちがう曖昧で情緒的な言葉をもって政治目標を語るべきではない。
(中略)
歴史的にいっても、政治にロマンティシズムを導入した人間にろくな政治家がいない。一人よがりのイデオロギーに酔って、国全体を危うくした政治家たちは、みんなロマンティストだった。
政治をセンチメンタリズムで語りがちの安倍首相は、すでにイデオロギー過多の危ない世界に入りつつあると思う。
安倍首相にはそれよりもっと、人を見る目を確かなものにするといった実用的な能力をしっかりと身につけてもらいたいものだ。
特に「歴史的にいっても、政治にロマンティシズムを導入した人間にろくな政治家がいない。一人よがりのイデオロギーに酔って、国全体を危うくした政治家たちは、みんなロマンティストだった」というところに、力を込めて頷いた。
そういう首相を置いていることは、実はとても危ないことだと思う。
正月休み、時間が取れれば、何度か目を通しているマキャベリの『君主論』を再読したい気分になった。「マキャベリズム」という言葉で悪い意味に捉えられることが多いが、リアリズムでリーダーシップとは何かを考えたら、ルネサンスの時代のイタリアで君主たちの盛衰を見てきたマキャベリの『君主論』こそ、何度も読みたくなる本のひとつだ。