朝顔

日々の見聞からトンガったことを探して、できるだけ丸く書いてみたいと思います。

善通寺

2009-02-19 | 国内各地の風物
香川県にある、弘法大師ご生誕のお寺です。
 四国霊場七十五番札所でもあります。真言宗。
 お遍路の人々が続々と歩いてきます。多くは中高年の人ですが、中には若い人も混じっていました。
 本堂(金堂)は広い境内にありますがそれほど大きくはありません。本尊は薬師如来。
 弘法大師を祭った「御影堂」は、本堂左手を200メートルくらい行った場所にあります。
 「戒壇めぐり」をしました。
 ”仏様に見守られながら、闇の中を心静かに進みゆく精神修養の場、それが戒壇めぐりです。中に入って、まず左手を伸ばし、左側の壁をつたって「南無大師遍照金剛」と一心に唱えながら、ゆっくりと進みましょう。・・・”
 御影堂の中から、地下に下りていきます(有料)。ほんとうに真っ暗でした。
 闇の中で見ることは出来ませんが両側の壁には、密教の宇宙観である曼陀羅にある三十七の仏様が描かれていて、足元には四国八十八ヶ所のお砂が敷き詰められているそうです。
 地下通路の中央に、突然、照明のある広間が現れ、弘法大師とご両親がまつられていました。
 国宝[一字一仏法華経序品]、書き写した法華経の行間に手書きの仏様が一文字に一仏が対応して描かれています。寺伝によれば、弘法大師が経文を書き母の玉寄御前が仏様を描いたとのことです。
 弘法大師空海は、若いときから大変な天才であって、低い資格で中国に留学したのですが、あっという間に中国の役人にその学識を認められ、入門した仏教密教宗主から外国人にもかかわらず後継者に指名されました。目的を早期に達成したので、密教の教本、秘伝、曼陀羅、仏具などを大量に持って、留学期間を勝手に短縮し規定に違反して帰国したそうです。
 一方、同時期の留学僧、最澄は最上位待遇を受けて帰国しエリート学者として比叡山を興しました。
 空海と最澄の活躍した時代は平安仏教の最盛期でありました。

 この時代、中国文明は農学、医学、科学技術の最先端でした。
 空海は、ため池など用水開発、習字など、仏教以外にも多くの社会開発のリーダーとなったのですね。



コメント (3)
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