耳慣れないインドの地名、それも、イギリス植民地時代の英語地名、その日本語カタカナ、現代のインド語を英語表記にした地名、その日本語カタカナ(b、v、延ばす音、の記述不統一)で、インド地図を検索して調べるのには多少苦労します。
わかりにくいかもしれないので、地図に位置関係を整理してみました。ただし前記の理由で正確な地名とその位置の理解はかなり曖昧です。ご容赦ください。
まず今回の全体概念図です:
注:「デリー」は、「オールドデリー」と「ニューデリー」を合わせた地名で、現在、インドの首都はデリーと呼ばれるのが普通です。
前半は北インドの仏教遺跡研修です。(8泊)
後半は、イスラム文化、ヒンドゥー教、仏教が一部で融合のタジマハール。マトゥーラの州立博物館とデリーの国立博物館見学です。
北インド、仏教遺跡訪問のルートは概ね下図でした。
日本から飛行機でデリーに深夜着き、1泊して国内便でラクノウに飛びました。その後、貸し切りバスで時計回りに東北方面に走りました。
道路事情が悪いので、バスの平均時速は30~50キロです。想像以上に時間がかかります。さらにはタイヤのパンク、交通事故、工事規制、通行税(州)、地域の祭り寄付金徴収など予測できないことが発生しました。
周回の順は、釈迦の年代順ではありません。
お釈迦様は、ルンビニ(現在はネパール)で誕生して、父の王城カピラバストゥで少年時代を過ごし、(父の反対を押し切って)出家し修行した後、悟りを開き、説法をして弟子が増えました。各地を巡りその思想を語った後、涅槃となります。その地はクシナガラ。入滅の後、弟子たちがその思想を体系化し記録しました。教義を深め研究する場所として、高弟シャリープトラ(舎利弗)がその生地ナーランダに大学を設立したのです。
7世紀、唐代の中国の僧、玄奘三蔵(三蔵法師)はナーランダに到達して学んでいます。
仏教よりも以前に成立していたインド古来のヒンドゥー教、それから派生して仏教よりも新しいジャイナ教、シク教(ターバンを巻く)。そしてアラブ圏から到来したイスラム教が中世にはインド亜大陸を支配しました。その圧力により仏教はインドでは衰退する一方、ヒマラヤを越えてチベットを経て中国へ。さらに形を変えながらもビルマ、タイ、ジャワ島などに広がり、モンゴル、朝鮮半島、日本に伝わったのです。
・・では世界史的に、西の方角にはなぜ広がらなかったのでしょうか。
わかりにくいかもしれないので、地図に位置関係を整理してみました。ただし前記の理由で正確な地名とその位置の理解はかなり曖昧です。ご容赦ください。
まず今回の全体概念図です:
注:「デリー」は、「オールドデリー」と「ニューデリー」を合わせた地名で、現在、インドの首都はデリーと呼ばれるのが普通です。
前半は北インドの仏教遺跡研修です。(8泊)
後半は、イスラム文化、ヒンドゥー教、仏教が一部で融合のタジマハール。マトゥーラの州立博物館とデリーの国立博物館見学です。
北インド、仏教遺跡訪問のルートは概ね下図でした。
日本から飛行機でデリーに深夜着き、1泊して国内便でラクノウに飛びました。その後、貸し切りバスで時計回りに東北方面に走りました。
道路事情が悪いので、バスの平均時速は30~50キロです。想像以上に時間がかかります。さらにはタイヤのパンク、交通事故、工事規制、通行税(州)、地域の祭り寄付金徴収など予測できないことが発生しました。
周回の順は、釈迦の年代順ではありません。
お釈迦様は、ルンビニ(現在はネパール)で誕生して、父の王城カピラバストゥで少年時代を過ごし、(父の反対を押し切って)出家し修行した後、悟りを開き、説法をして弟子が増えました。各地を巡りその思想を語った後、涅槃となります。その地はクシナガラ。入滅の後、弟子たちがその思想を体系化し記録しました。教義を深め研究する場所として、高弟シャリープトラ(舎利弗)がその生地ナーランダに大学を設立したのです。
7世紀、唐代の中国の僧、玄奘三蔵(三蔵法師)はナーランダに到達して学んでいます。
仏教よりも以前に成立していたインド古来のヒンドゥー教、それから派生して仏教よりも新しいジャイナ教、シク教(ターバンを巻く)。そしてアラブ圏から到来したイスラム教が中世にはインド亜大陸を支配しました。その圧力により仏教はインドでは衰退する一方、ヒマラヤを越えてチベットを経て中国へ。さらに形を変えながらもビルマ、タイ、ジャワ島などに広がり、モンゴル、朝鮮半島、日本に伝わったのです。
・・では世界史的に、西の方角にはなぜ広がらなかったのでしょうか。