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Mikuのブログ

正力松太郎、ジャニー喜多川、竹中平蔵。日本をだめにした男達(ほんの一部)

2023-10-09 09:03:18 | 日記

このブログの第三位に上がっていた2014年12月15日に投稿したブログを再投稿しました。

Youtube動画は現在YoutubeによってBANされています。どなたかがFC2へ移動させていましたのでそちらをご覧ください。


 

日本人に仕掛けられた甘い罠

 https://www.nicovideo.jp/watch/sm26096091

 ニコニコ動画ログインが必要です。

 

 正力松太郎  (Wiki)

CIAの協力者としての活動

早稲田大学教授の有馬哲夫が、週刊新潮2006年2月16日号で、正力が戦犯不起訴で巣鴨プリズン出獄後に中央情報局(CIA)の非公然の工作に協力していたことをアメリカ国立公文書記録管理局によって公開された外交文書(メリーランド州の同局新館に保管されている)を基に明らかにし、反響を呼んだ。有馬は日テレとCIAの関連年表も作成しており[23]、その中でアメリカ対日協議会の面々を登場させ、日テレとの密接な関係を抉り出している。

日本へのテレビ放送の導入と原子力発電の導入について、正力はCIAと利害が一致していたので協力し合うことになった、その結果、正力の個人コードネームとして「podam」(英:我、通報す)及び「pojacpot-1」が与えられ、組織としての読売新聞社、そして日本テレビ放送網を 示すコードネームは「podalton」と付けられ、この二者を通じて日本政界に介入する計画が「Operation Podalton」と呼ばれた。これらの件に関する大量のファイルがアメリカ国立第二公文書館に残ることになった(アメリカ国立公文書 Records Relating to the Psychological Strategy Board Working Files 1951-53)。正力と共に日本のテレビ放送導入に関わった柴田秀利は「pohalt」というコードネームを与えられた。

CIAに正力松太郎を推薦したのは、カール・ムント上院議員であるとベンジャミン・フルフォードは主張している

 

 ジャニー喜多川   (Wiki)

生い立ち

父親は高野山米国別院の僧侶(第3代主監)で、1946年(昭和21年)から1949年(昭和24年)までプロ野球チーム「金星スターズ(元・ゴールドスター、後・大映スターズ)」のマネージャーだった喜多川諦道。諦道の次男として、1931年(昭和6年)10月23日にアメリカロサンゼルスに生まれる。姉はメリー喜多川、兄はNASAでアポロの設計もしていた科学者だったが1980年代に50代半ばで逝去している。母親は幼少時にアメリカで死別している。

太平洋戦争開戦後、日系人の強制収容により、父、姉、兄、そして弟と共に、カリフォルニア州内に抑留された。その後、1942年(昭和17年)6月18日の第一次日米交換船で日本に渡り、両親の出身地である和歌山市に居住した。戦争末期の1945年(昭和20年)7月9日には、アメリカ軍による和歌山大空襲で焼け出され、日本の敗戦後には一家と共にロサンゼルスに帰国し、現地の高校に入学した。高校時代にはロサンゼルスの「アーニー・パイル・シアター」にて、ミュージックメイカーのアシスタントとして、アルバイトを経験している。

ロサンゼルスの高校を卒業後、姉と同じロサンゼルス・シティー・カレッジ[注釈 2]に進学。

1950年(昭和25年)、美空ひばりが、育ての親・川田晴久と 共にアメリカ公演を行ったが、ロサンゼルス公演の際、父の勤務先だった真宗大谷派東本願寺ロサンゼルス別院が会場となった為、ステージマネージメント全体 を担当。川田晴久の知遇を得ると共に、美空ひばりとも親しく交流するようになった。この事が、日本芸能界への進出のきっかけとなる。

1952年(昭和27年)、ロサンゼルス市立大学を卒業した姉と共に再来日。アメリカ大使館に陸軍犯罪捜査局(CID)の情報員(通訳の助手)として勤務する。米軍関係の仕事の一環として、当時勃発していた朝鮮戦争による戦災孤児に英語を教えるために、日本でわずか10ヶ月で朝鮮語をマスターし、すぐ韓国板門店に出向き、1年2ヶ月間に渡って子供達に英語を教えた。

さらに、再来日後は、アメリカ大使館軍事顧問団に勤務。その傍ら上智大学国際部(現在の国際教養学部)に進学し、上智大学を卒業。大学在学中の1955年(昭和30年)、バンドを結成し、芸能界へ参入。以降は日本に永住している。

 

 竹中平蔵   (Wiki)

郵政民営化

郵政解散後の第3次小泉内閣にて郵政民営化担当大臣に登用され、法案作成に携わった。これは郵貯・簡保の資金を外資に売り渡すためであったと批判されている[要出典]。 三ヶ月間の政府与党協議では特に徹底して罵詈雑言を浴びせられ[23]総務大臣麻生太郎とは激しく対立し麻生からは「あんたは霞ヶ関に嫌われている。あんたが言うから、皆反対に回る」[24]、また官邸閣議では参加者から「いつか仕返ししてやる」と吐き捨てられた[25]

当初、野党民主党は欠席戦術を敷いていたが、郵政解散後は審議に参加するようになった。(#郵政民営化広報チラシ問題#「アメリカ追従」批判

 

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