行政書士中村和夫の独り言

外国人雇用・採用コンサルティング、渉外戸籍、入管手続等を専門とする26年目の国際派行政書士が好き勝手につぶやいています!

68年ほど前?の謎の写真

2010-08-14 00:19:17 | 写真

 今年も、あの太平洋戦争が終わった8月15日がやって来ます。

 数ヶ月前、老父の荷物を片付けている時に、

 偶然見つけた写真です。

 今まで一度も見た事のもない、

 生まれて初めて見た写真です!

 一兵卒だった若かりし老父が写っていて

 軍服姿の集合写真もありましたが・・・。

 (済みません、ここではご紹介しません。)

China_before_19455

China_before_19454 China_before_19453

 老父が所属していた連隊で、中国の秦皇島(しんのうとう)に居た頃の

 山海関(さんかいかん=万里の長城の東端)付近の写真には

 間違いはないとの事なのですが・・・。

 しかし、なぜこんな写真が自分の手元にあるのか?

 誰が撮影した写真なのか? そして、誰に貰った写真なのか?

 これらの記憶が一切はっきりせず、

 どうしても思い出せないのだそうです。

 いや、本当は思い出したくない記憶なのかもしれません・・・。

China_before_19452 China_before_19451

 歴史の教科書に出て来そうな貴重な写真なのかもしれませんね。

 ちなみに、老父は

 「自分は技術者だから、士官にはなれません!」

 と本当に一兵卒で通した頑固者だったのだそうです。

 当然ながら下士官や古参兵から顔が歪むほど殴られ、

 実家の弟達からも”非国民”と罵られたのだそうです。

 しかし、何と言われようとも、最後まで自分の主義主張を

 押し通し続けたのだそうです。

 こんな頑固者の父ですが、技術者(菅総理と同じ、応用物理学科卒です。)

 である以上、気象観測やら装備のメンテ等々では、

 それなりに連隊の役には立っていたようです。

 また、父のような頑固者が数人おり、それに手を焼いた連隊長が

 地元中国の方々の民生上のトラブルの相談に乗るなど、

 中国の方々への住民サービス的な役目を任されていたのだそうです。

 ところが、これが功を奏したのか、連隊の撤退時には

 地元中国の方々に助けられ、奇跡的に

 八路軍(はちろぐん=毛沢東率いる中国共産党抗日ゲリラ組織)

 に一度も襲われずに、無事に老父所属の連隊は撤退できたのだそうです。

 老父は、終戦の1年9ヶ月ほど前の昭和18年11月8日付け

 の辞令で、急になぜか招集される前に勤務していた

   某研究所に呼び戻されて、

 結果的には南方の激戦地に送られずに済み、

 命が助かったのだそうです。 

 前述したような老父の頑固なまでの性格が結果的には幸いして、

 本土に呼び戻されたのかもしれません。

 人生とは本当に分からないものですね!何が幸いするのかが・・・。

【ご注意】

 撮影者、著作権者が不明な写真なので、

 転載、転用は厳にご遠慮願います! 

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4 コメント

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2段目左の小学校の写真は何かの展覧会開催時のも... (とおりすがり)
2010-08-14 11:48:18
2段目左の小学校の写真は何かの展覧会開催時のものですが、学校名がよくわからないので「中○小学校」(○がわからない)、場所がわかりませんね。

2段目右の写真は3段目左の写真の鎮東楼の狛犬みたいなものとその後ろの門らしきものが一致しているので、3段目左の写真の左側の狛犬がいる門を右方向から写したもののようです。

3段目右の写真は3段目左の写真の鎮東楼を横から写した写真です。

4段目右は実際に当時現地にいた人じゃないとわからないでしょうね。


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とおりすがりさんへ (Nakamura)
2010-08-16 11:36:39
とおりすがりさんへ
 ご説明ありがとうございます。老父は、介護を受けてはいますが、まだ痴呆状態ではないと思います。そのような状況でも思い出せないのは、やはり戦争当時のことは思い出したくないという潜在意識が働いているとかしか思えないのです。
 ある意味ではすべての戦争体験者が生きて行く上で持っている防衛本能機能のような気がします。
 おそらく、極度のストレスとなるほどの辛い経験ではなかったのかと私は思うのです。ですから、こんな機能が無ければ、普通の人間は悲しさや辛さで参ってしまうと思うのです。
 ちなみに、4段目の右の写真は、当時の研究所の同僚達と撮った写真だと思うが、場所は日本国内の筈だが、どこなのか、そして誰が誰なのかが、さっぱり思い出せないとのことでした。
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相続人予定者なら、明治欽定憲法下の国家機関でも... (かとちゃん)
2010-08-17 17:49:52
相続人予定者なら、明治欽定憲法下の国家機関でも、同僚等の生存者がいれば、尋ね人では無いが、何がしかの情報が掴めるのでは。
*何とか試験所、旧大蔵省の酒造試験所・旧の逓信省(NTTは現憲法施行日以降に)・旧内務省の作家「新田次郎」氏は富士山測候所勤務がありーーー、国立国会図書館で明治・大正期の国家機関一覧の資料があると思うのだがーーー。以上。
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 研究所の方々で復員できた方々も既に亡くなって... (Nakamura)
2010-08-18 07:47:55
 研究所の方々で復員できた方々も既に亡くなっているようです。連隊に居た方々に至っては南方に送られた方々が多く復員さえ出来なかった方々が多かったようです。
 それに老父と同年齢だとして94歳、仮に生存されていたとしても・・・という感じです。せめて、10年前に見つけていれば探しだそうとも思えたのですが・・・。
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