就籍許可審判という滅多にお目にかかれない謄本を添付して、当時Mさんが一時滞在していた市役所に、新たな戸籍を設けるように、ご本人の署名入りの届出書を持参して、Mさんの使者として私が届出を提出したのでした。
また、Mさんの成人したお子さん達も事実婚で生まれた方々であることから、彼等の出生証明書の届出人がMさんである事案については、報告的届出として認知届も併せて出しておくようにアドバイスし、それも併せて届出書を提出したのでした。勿論、現行の国籍法によって、彼等には日本国籍が許可されることはありませんが、少なくとも、将来来日される時があれば、彼等に有利となっても、決して不利とはならない手続でした。
その後、1年ほど経過した頃でしょうか、私と会おうとしなかったそのMさんの息子である不法残留者のVM君が私と突然会いたいと連絡して来たのでした。当時、VM君にはまだ在留資格が無いままでしたが、遅かれ早かれ在留資格が貰えるであろう事は、私には分かっていたのでした。そのVM君は、ご自分の手続きをどうしても私に依頼したかったようでした。しかし、私は断ったのでした。
「私は、お父様のMさんの日本人としての権利を守る為には尽力はしましたが、あなたの在留資格取得が目的だった訳ではありません。それは今でも同じです。ですから、私のポリシーとしてお引き受けできないのです。」
「先生には、本当に感謝しています。父も先生の事を全面的に信頼していますので、是非私の現状を助けて頂けないでしょうか?」とVM君。
「そうしてあげたいのは、やまやまなのですが、先ほども言った様に、私があなたの手続きをしたら、結果として、お父様の国籍回復に尽力したのは、あたたの為になってしまうからです。ですから、道義的にどうしてもお引き受けはできないのです。それに、今のあなたの状況であれば、他の人に依頼しても、おそらく問題なく許可が受けられると思います。」
「どうしても、駄目なのでしょうか?」とVM君。
「済みません。私のポリシーなのです。」と、私。
「分かりました。でも、先生に未払いの父の手続きでの報酬については、私が責任を持ってお支払い致します」、そう言って、VM君とは別れました。
その後、VM君は無事に在留特別許可されたそうですが、御母様が亡くなって帰国したとかで、暫く連絡が無く、私も忘れかけていたのでしたが・・・。
事務所に始めてやって来たVM君とそのお兄様は、「先生の事は、決して忘れた事はありませんでした。遅れて、本当に申し訳ありませんでした。」
「いやいや、忘れずに覚えていてくれただけでも、有り難い話です。御父様はお元気ですか?」と私。
「はい、しかし、高齢ですからあまり具合は良くありませんが・・・。いつも先生に助けられたと言っています。そして、先生への約束は必ず守って欲しいと言われておりましたので、今日参りました。」
「そうですか。あの手続は、結果として入管が日本人の子として認めなかったのに、裁判所が日本人とした認めたという面白い案件でした。それに、私も意地になっていた件でしたから・・・。お父様が日本国籍を得られて良かったですね。それに私のキャリアとしても、実際とても良い経験になりました。」
最後に、日系人の多くの同僚が解雇されており、心配だとVM君兄が呟いておりましたので、
「もし解雇されないようであるならば、過去にもチャンスがあったでしょうが、今度こそ正社員として雇用して貰ったら良いですよ。必ずそうして下さい!」
とアドバイスする事も忘れませんでした。
そういえば、就籍の審判があってから1年程が経っていた頃だったでしょうか。Mさんや私に対して「日系二世としての在留は許可はできない!」と言って、私をむっとさせた入管の統括審査官が、たまたま東京会での講演にやって来た時に、地下講堂の壇上から「皆さんは依頼人側に立って、我々を説得できる立証資料を用意することにご尽力して頂きたい!」と言った時に、ふと私と目線が合ったことを思い出しました。
案外、この統括審査官、家裁の調査官から意見を求められた際に、依頼人のMさん側に有利な見解を述べてくれたのかな?などと、今でもときどき思い出す、7年前の在留変更不許可案件でした。