一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

読者(私)も判っちゃいない(その1)

2006-08-12 | 乱読日記

このシリーズの趣旨はこちらをごらんください。


「教養喪失と江口寿史現象」

「教養」の深浅は、自分の「立ち位置」を知るときに、どれくらい「大きな地図帳」を想像できるかによって計測される。

ウチダ先生の若い頃は「今の自分と同年齢の昔の人」に対しても共感や嫉妬を覚えていたのに、今の学生は、同学齢集団しか比較対象にしない。そのため集団全体の学力が低下していても、自らの相対的位置が変わらない限り安心している、という話がマクラにあります。
大学の工学部で教えている友人も、1年生の最初は高校の物理の復習をやっている、と言ってましたので学力の低下は確かにあるようです。

ただ「狭い集団を比較対象とする」というのは今の学生に限ったことではなく、企業における出世競争とか、業績における「ベンチマーク」の設定などでも陥りやすいですね。



「バーチャル爺のすすめ」

明治にあって二十一世紀になくなったもの、それは「早く爺(じじい)になりたい」という願いである。若者が「早く爺になりたい」と願うのは、日本古来の伝統のひとつだったのである。
 「自分は若い」という想定は、すなわち「自分は現在の社会制度の諸矛盾については責任がなく、むしろ被害者である」という自己免責につながる。

夏休みの旅行前に美容院に行って髪をかなり短くしました。 そのとき「ちょっと白髪が・・・」「いえ、全然気になりませんよ、ちょっとあったほうがいい感じでは?」などという会話があって、「じゃあ、いっそのこと全部真っ白に染めて前髪を立たせちゃったりするのはどうだろう?」などと話して盛り上がりました。

しかし、もしそれを実行した場合、それが(私の今の仕事においては)非常識な行為であるだけでなく日本の知的伝統に反するものであるとまでは思い至りませんでした。



「本が読む」

だから、「私が本を読む」というのは、いささか自己中心的な表現だと私は思う。 本が私を選び、本が私を呼び寄せ、本が私を読める主体へと構築する。

人との出会いなども似たようなところがありますね。

いたずらに名刺を配るだけではだめなわけで・・・

コメント
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