一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

『アイデンティティと暴力』

2012-03-18 | 乱読日記

著者は1998年にノーベル経済学賞を受賞した アマルティア・セン
本書は表題からもわかるように、経済学の本ではなく、現代社会における国や勢力や集団などの対立の根底について考察した本です。

センは特に「アイデンティティ」ということばが、ある人が特定の集団に固有に帰属することととらえられていることに問題があると指摘し、本書を通じて、アイデンティティは与えられたものではなく自らが選択するものだ、という考えを主張します。  

 一人の人間が同時に所属するすべての集合体がそれぞれ、この人物に特定のアイデンティティを与えているのだ。どの集合体も、この人物の唯一のアイデンティティ、または唯一の帰属集団と見なすことはできない。人のアイデンティティが複数あるとすると、時々の状況に応じて、異なる関係や帰属の中から、相対的に重要なものを選ばざるをえない。  
 したがって、人生を送る上で根幹となるのは、自分で選択し、論理的に考える責任なのである。


 人を矮小化することの恐るべき影響とはなにかを考察することが、この本の主題である。そのためには、経済のグローバル化、政治における多文化主義、および国際テロリズムといった、すでに確立されたテーマを再検討し、再評価する必要がある。現代の世界における平和への見通しは、われわれを狭い枠内に押し込めて囚人扱いせずに、人には複数の帰属先があることを認め、広い世界に暮らす共通の住民として論理的に考えることによって開けるのかもしれない。われわれに必要なものはなににも増して、自らの優先事項を決めるうえで享受できる自由の重要性を、明晰な頭で理解することなのだ。

そして、単一帰属的な考えの誤謬を幅広い知識をもとに批判していきます。  
たとえば「反西洋」という立場は「西洋」という概念を元にしているが実はそこには西洋以外で生まれた、または西洋固有のものでない概念や制度や技術が含まれていること(「一般にグローバル化は新しくもなければ必ずしも西洋のものでもなく、災いでもない、と私は主張したい」)、「多文化主義」は個人のアイデンティティが、その人の持つ言語、階級、政治見解、市民としての役割などの他の全ての帰属関係を無視して、宗教や共同体のみによって決められなければならないという点で対立を助長することなどを厳しく批判します。  


世の中には考えなくて済む大小様々な整理・分類・レッテルの貼り方があふれていて、僕自身往々にしてそれに乗っかったり、説明を容易にするために意識的に使ったりします。  

「単一帰属」の考え方は、とことんまで突き詰めて考えることから私達を解放する力があるだけに、「わかっちゃいるけどやめられない」という魅力を持ちます(「いじめ」なんてのもその一つだと思います)。  
ただそれが結果としてよくない結果をもたらすことだけは十分意識すべきですし、重要な問題の判断にあたっては、考える努力を放棄すべきではないと痛感します。  

暴力を促進する好戦的な「技」は、原始的な本能を頼りにして、利用するものであり、それによって考える自由と冷静で論理的な思考の可能性を締めだす。だが、そのような技はある種の論理--断片的な論理-- にも頼っていることに、われわれは気づかなければならない。特別な活動のために選別された特殊なアイデンティティは、たいていの場合、勧誘される人の生来のアイデンティティだ。フツ族となるのは実際にフツ族であり、「タミルの虎」は明らかにタミル人であり、セルビア人はアルバニア人であってはならないし、ナチズムに感化される反ユダヤのドイツ人は、たしかに非ユダヤ系のドイツ人なのだ。その自己認識の意識を殺害の道具に変えるためになされることは、①それ以外のあらゆる帰属と関係の重要性を無視し、②「唯一」のアイデンティティの要求をことさら好戦的なかたちに再定義することである。ここに概念上の混乱とともに不穏な影が忍び寄ってくる。

余談になりますが、以前サンデル教授の「熱血授業」の東大での出張授業をTVで観たときに、授業後のインタビューに答えた受講者のひとりが「僕はリバタリアンだから・・・」と言っていたので、授業では結論を出すのが重要なのではなくて、議論のプロセスや背景を学ばせるから評判になったんじゃないのかな、と思ったのですが、頭のいい人ほどかえって結論に飛びつきやすいということもあるのかもしれません。(ちなみに本書ではコミュニタリアンの共同体の考え方についての批判もあります)  


本書はオススメという以上に、多くの人に読んで欲しい本です。

 

 

コメント
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