この本のやっかいなところは、読者それぞれの思う「正しい日本の姿」が異なっていても、声をそろえて「その通り、今の日本は問題だ!」と皆が言い出しそうなところ。
それはかえって本書が危惧する結果につながりかねないのではないか。
その意味で、著者が存命であれば、自由民主党の日本国憲法改正草案についての感想を聞きたいと思った。
本書の元は1975年に文芸春秋に掲載された論文。
昨年朝日新聞で取り上げられ話題になったのを受け出版されたもの。
解説によれば、当時は革新勢力による政権交代期待がメディアでも多数であった時代であり、発表時も議論を巻き起こしたらしい。
1975年といえばサイゴンが陥落しベトナム戦争が終わった年なので、そういう時代だったのだろう。
本書はトインビー、オルテガ・イ・ガゼットやローマ帝国の衰退をひきながら、日本が内部から崩壊しつつあることを警告している。
諸文明の没落の歴史を辿っていくと、われわれは没落の過程で必ずといってよいほど不可避的に発生してくる文明の「自殺のイデオロギー」とでも呼ぶべきものに遭遇する。それは文明の「種」により、また時代によってさまざまな形をとってはいるが、それらに一貫して共通するものは極端な平等主義のイデオロギーであると言うことができる。この平等主義のイデオロギーは、共同体を解体させ、社会秩序を崩壊させ、大衆社会化状況を生み出しつつ全社会を恐るべき力で風化し、砂漠化しtげいくのである。
そして「戦後民主主義」という名の疑似民主主義のイデオロギーは現代日本の「自殺のイデオロギー」として機能している、と指摘する。
著者は疑似民主主義の特徴として次の6点をあげる。
1.独断的命題の無批判な受容
2.画一的、一元的、全体主義的性向
3.権利の一面的強調
4.批判と反対のみで建設的な提案能力に著しく欠ける
5.エリート否定、大衆迎合的性格
6.コスト的観点(すべての社会的、政治的問題の解決には何らかのコストが必要)の欠如
真の民主主義の本質のひとつは、多元主義の承認である。ところが、疑似民主主義は本来、多元主義のための一時的かつきわめて限定された調整のための手段、便法として工夫された多数決を、一元主義、画一主義、全体主義のための武器に巧妙に転用するのである。
冒頭にふれた自民党の憲法改正草案に戻ると、方向性、国家観の是非(安全保障とか緊急事態宣言とか天皇とか)は脇に置くとしても、国民の権利・義務のところで多用される「公益及び公の秩序」というところが気になる。
「公益及び公の秩序」の定義がなされず、しかも憲法改正要件が緩和されると、大衆迎合的、かつ画一主義・全体主義的な政党が政権をとった時に、筆者のいうように日本の自殺は加速されないだろうか。
自民党が必ずそういう政策をとる、と言っているわけではない(そうでないことを祈る)。
一方、起草者は当然自民党なら「公益及び公の秩序」などについて適切な判断のもとに政府を運営できると思っているのだろう。
しかし、起草者は将来他の野党が政権をとった時にこの改正草案がどのように機能するか、を考えたことがあるのだろうか。
自民党は長年政権の座にあったとはいえ、今後もまた長期政権が続く保証は全くない。
しかも本書の著者に言わせれば、1975年の日本には大衆迎合型の疑似民主主義がはびこっていたし、その指摘は今でもかなりの部分妥当するように思われ、選挙のたびに振り子の振れ幅は大きくなる可能性がある。
となれば、近い将来大衆迎合型の政党(具体的な政党を指してはいないし自民党も該当するかもしれない)が政権をとることも考えられる。
憲法は「不磨の大典」である必要はないが、政権交代ごとに変えるものでもない。
少なくとも誰が政権をとったとしても安定的に機能するものである必要があると思う。
そういうものとしてこの改正案が相応なものと思うか、著者が存命であれば(解説によれば婀主たる執筆者は逝去されているらしい)、ぜひ意見を聞きたいと思った。