宗教学者で、オウム真理教を擁護したとしてバッシングにあい一時期表舞台から姿を消していた島田裕巳氏の本。
昨年『葬式は、要らない』で話題になりましたが(これは未読)本書は葬儀だけでなく現代日本人の死のありかた、特に「無縁社会」「孤独死」について論じています。
著者は戦後の高度成長期の日本社会においては、多くの人が地方の地縁・血縁中心の村社会から自由を求めて都会に集まってきた、いわばあえて無縁を求めてきたと指摘します。
さらに都会におけるサラリーマン化が、ネットワークの継承をしにくくし、無縁化を促進しているといいます。サラリーマンは「家業」として承継することはできず、その結果家族それぞれが所属集団とのつながりを重視するほど家族間の関係が希薄になるのです。
著者は現在の無縁社会、孤独死の問題はその結果であり、結果だけを問題視するのでは解決はしないと主張します。
無縁死ということが社会的な問題として意識されるようになったなかで、重要なのは、無縁死や孤独死自体を防ぐことではない。
実は私たちは無縁死を求めてきたのではないか。その角度からもう一度事態を振り返ってみなければ、無縁死に同対処するか、本当の解決策は見出されないはずなのである。
そして大前提として表題の「人は一人で死ぬ」という認識の重要性を説きます。
私たちは、個人が村や家といった共同体に縛られない人生のあり方を望み、それを実現させてきた。そこには、束縛の少ない自由な暮らしがある。
それは、反面から見れば、無縁を希求する生活であり、最期は無縁死に終わる人生である。
そちらを選択した以上、私たちはそうした生き方をまっとうするしかない。それが動かしようのない事実であり、結論である。
最期は、ひとりで死ぬ。
その現実を受け入れ、そこから出発するしかない。
もっとも筆者は無縁死に陥らないように縁を大事にし、家族としての生活を営み、それを維持するよう努力するという選択肢も認めています。 ただ、自分で無縁を望んでおきながら、最期になって無縁死を恐れる姿勢については厳しく批判します。
・・・社会から十分な恩恵を被った上で亡くなるなら、死後にそれ以上のことを望むのはあまりに贅沢すぎる。
もし、浄土というものが存在し、支社が極楽往生するものであるなら、それで十分なはずだ。
にもかかわらず、現在のシステムでは、遺骨が残るために、墓をもうけなければならず、そこに供養や墓参りの必要が生まれる。死者は恵まれているかもしれないが、残された生者には過大な負担がかかる。
それは極めて不合理なことではないか。
これからの社会では、経済の発展は望めず、生者はさまざまな面で苦労を強いられる。
今の死者は、手厚い年金や医療といった社会保険の恩恵を受けてきたが、これからの人間はそれと同じ恩恵を受けられるとは限らない。年金は削られ、医療負担は増えるかもしれない。そうした生者に対して、死者が経済的、物理的、心理的な負担をかけていいものだろうか。
ここの指摘はそのとおりだと思います。
墓を作ることや墓参りまで否定する気はありませんが、お金持ちならさておき、自分の死後のためになけなしの財産を使って高価な墓を準備したうえ維持費の負担を後世にかける、という行動は今後少なくなっていくように思います。
逆に、こういう状況を寺院の側はどう見ていて、どのように社会の動向の変化に対応しようとしているのかも興味あります。
主張や結論だけ見るとちょっと救いがない感じもしますが、冒頭から戦後日本社会の状況を概観し、同時にその間に起こった新興宗教の勃興と変化(ここは著者の専門分野)や最近の縁を求める動きなども紹介しつつ、説得力をもってかつテンポよく読める本になっています。