著者は『弱者99%社会』の論者として登場した濱口桂一郎氏。
本書は労働法の本、というよりは労働法制度を歴史的背景を含めて俯瞰した本です。
本書の第1章の書き出し。
本書ではまず、日本型雇用システムの本質を、雇用契約が職務の限定のない企業のメンバーになるための契約(空白の石版)であることと捉え、ここから長期雇用、年功賃金、企業別組合といったさまざまな特徴が導き出されることを説明した上で、そのシステムが歴史的にどのように形成されてきたのかをごくかいつまんで述べます。
次に、しかしながら日本国の法制度は他の国々と同様に、雇用契約を労働と報酬の交換という債権契約と定義していることを示し、この現実社会の姿と法律の建前との隙間を埋めてきたのが、戦後裁判所の判決で確立してきた判例法理であることを明らかにします。
そして、空白の石版である雇用契約に代わって具体的な雇用労働条件を定めるものとして、企業が定める就業規則が雇用関係の根本規範としての地位を持つようになってきたという日本社会の特徴を描き出し、就業規則に関わるいくつかの判例法理を解説します。
「そんなこと常識じゃないか」と具体的な事件や法制度・判例まで頭に浮かんでくる人には本書は不要だと思いますが、私のような半可通には、個々の法律や判例を俯瞰する視点が新鮮でした。
たとえば職能給と成果主義のくだりでは成果主義が根付かなかった背景をこう分析します。
労働法学や人事管理論も含め、現代日本では年功制と成果主義を対立させて論ずることが多く、賃金制度論としては職務基準かヒト基準かが最重要であるという基本的な認識が希薄である・・・ために、年功的に運用されてきた職能給を成果主義に改めると、成果を評価すべき基準自体が不明確になってしまったわけです。
そして、「メンバーシップ型」の雇用制度がより象徴的にあらわれているのが過労死問題です。
日本でのみ過労死・過労自殺問題がクローズアップされた背景には、上述の労災補償制度の違いとともに、日本型雇用システムに特有の問題として、ブルーカラーも含む正社員がメンバーシップ型出世競争の中で半ば自発的に長時間労働に駆り立てられ、しかも生活保障を失うことを恐れるためそこから脱出することが困難であるということがあります。ジョブ型雇用契約の考え方からすれば、労務供給と言う取引関係の相手のために死に至るというのは不合理でしかありませんが、メンバーシップ型社会では、死なない程度のギリギリまで長時間労働することが長期的には最も合理的な選択となるのです。
その意味では、(日本以外の社会では自己責任でしかない)脳心疾患や自殺が労働災害とみなされるということ自体に、正社員の長時間労働が必須要件として組み込まれた雇用システムの特性が表れているともいえますし、「安全配慮義務」が、労働安全衛生法で規制された危険有害な業務に限らず、労働者の一般的な健康状態や精神衛生状態にまで及ぶということの中に、企業がその「メンバー」について公私の別なく配慮することが無意識的に前提とされているともいえます。
僕自身は「命や財産までは取られないのがサラリーマンのいいところ」と思っているのですが、その考え自体がけっこう特殊と気づかされ、世の中には真面目な人が多いと実感することも多いのですが、雇用慣行や法制度自身が長時間労働を前提としている、という指摘を頭に入れておくことは重要だと思います。
ただ最終章「日本型雇用システムの周辺と外部」で非正規労働について扱っている部分は(日本の法制度下では労働者はすべて雇用契約に基づいて働いているにもかかわらず「契約社員」という言葉が特定の就労形態を指す、というあたりのつっこみはさすがなのですが)、「メンバーシップ型vsジョブ型」の切り口で単純には料理できない部分もあり(非正規=ジョブ型、というわけでもない)切れ味の鋭さが欠けているのはちょっと残念。
現在の労働法制や判例がどういう時代背景から形成されてきたかを理解するには役に立つ本だと思います。