新書にありがちな派手なタイトルですが、文明や科学技術に対する見方や切り口で面白いものが多い本です。
対談本(哲学者の萱野稔人氏と科学史の神里達博氏)なので、一貫した文明論にはなっていないのですし、根拠や出典もないので強引に見える部分もありますが、そこも含めて楽しめばいいのだと思います。
一言で言えば、本書で語られているのはこういうことです。
(神里) なるほど近代を生きるわれわれは、さまざまな知識やテクノロジーについては充実させてきている。でも、歴史のズームをぐっと広げ、広いパースペクティブで見てみると、われわれのリスクとの付き合い方は、むしろ本質的なところでヘタクソになってきているのではないか。
ここでいう「われわれ」は、日本人であったり人類全体であったりと議論は幅広く展開します。
日本について言うと
日本は気候が温暖で、麦に比べて生産性の高い稲作が中心だったので、人々が放っておいても食べていくことができた。
その反面日本社会では自己責任の観念が強いのではないか(日本では福祉政策のために国家が権力を行使する事に対して否定的な傾向が他国に比して強いという調査結果がある)。
日本人が「天災」には寛容なのに「人災」となると非常に不寛容になるのが典型例。
誰かが決定して自然に抗うよりも流されて生きていく方が楽、という社会ではリスク(=自由意思に基づく決定とともに生じる)という観念が根付かない。
そのためか日本では社会的にリスクの可視化をいやがる傾向が強い。
たとえば「富士山が噴火するリスクは高いから対策を立てるべきだ」ということが「お前は富士山噴火が起きればいいと思っているんだろう」とリスクを可視化する言説が呪いとして受け取られてしまう。
呪術とか言霊信仰自体が悪いものではないが、それらに依拠しているのにその自覚がないので、合理的にリスクをマネジメントすることができないことが問題。
仕事でも問題点を指摘されると個人攻撃と受け取る人というのは結構いますね。
あと、面白かったのがテクノロジーについての話。
テクノロジーにはメリットを得るためのテクノロジーとリスクを制御するテクノロジーがある。
リスク社会化している先進国では、後者のテクノロジーが有用になる。
しかし、あるリスクを技術によってコントロールできるようになると、結果についての責任が自分に帰ってくるので、しなければいけない決断の量が増えてしまう。
(神里) もしこの世に傘というものがなければ、雨が降ってくるかもしれないというリスクに対して、人間は決断する必要がないですね。だって雨を受け入れることしかできないですから。でも、傘というテクノロジーを持ってしまったがために、雨が降るかどうかのリスク計算を、人間は引き受けなければならなくなってしまった。
企業の不正防止を目的としたコーポレート・ガバナンスの議論もここに陥っている感じがします。
最終章「国力のパラダイムシフト」で日本流のリスク管理のあり方とか、成長幻想・輸出幻想から脱却して「縮小対応力」をつける、というようなことが語られていますが、ここのところは残念ながら踏み込みガ足りないので残念でした。
まあ、これだけで本が書けるようなテーマですから仕方ないのかもしれませんが。