今朝の日経のスポーツ面の「フットボールの熱源」というコラムは「小走りする必要はない」。
陸上競技のコーチが本田圭祐を「ふつう小走りするような場面で歩いている。そこが素晴らしいんです」と評している。
その理由は、小走りをすると消耗しやすいふくらはぎに負担がかかるが、背筋を伸ばして骨盤から始動して歩くと効率的に体を運ぶことができ、無駄な消耗を防げるからだという。
しかし、日本のサッカー界では、歩いているとさぼっていると思われがちだ。サッカー選手なら、ベンチから「こら、歩いているんじゃない」としかられた経験があるのではないだろうか。歩く姿をさらすと印象が悪くなる。
だから走る必要がない場面でも「私はさぼっていません」と示すために、無意識のうちに小走りをしているような気がする。
これはサラリーマンについてもあてはまる。
暇そうにしている社内ではとサボっているように見られたり、下手をすると余剰人員扱いされる、また社外の人には「暇だ」というと閑職におかれていると見られかねない、というような意識もあって「忙しくなければいけない」という意識があるような気がする。
営業上羽振りのいいふりをするのが必要なときはあるが、身内に対して忙しいふりをするのは何の生産性もない。
しかも、自分だけでなく他の人間も消耗させたりして、挙句の果てにいざというときに余力がなくなってしまう。
サッカーならピッチの外から俯瞰すれば全体の動きや空いているスペースはわかるが、商売だとそうはいかないところにも原因があるのかもしれない。
これは、組織の目標設定と個別の役割分担・課題設定、さらには人事評価が難しいということにもつながるし、ピッチ(市場)の中に立ちながらなお俯瞰する能力を求められるのが監督(経営者)の役割ということになるのだろう。