一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

『ニッポンの小説 百年の孤独』(下)

2008-05-30 | 乱読日記
昨日の(上)を書いたのはかれこれ2週間くらい前だったのですが、そのあと肝心の本書の感想を書こうと思ってなかなかまとまらず、放っているうちにますますやる気がなくなる、という悪循環にはまり込んで、(上)のほうもドラフト状態のままほうっておきました。

まあ、誰に頼まれたわけでもないので、面倒くさければやめればいいのですが、書棚にしまうのもどことなく気が引けたままPCの脇に本書がドン、と鎮座しているのもどうも目覚めが悪いので思い腰を上げることにします。
なので、ちょっと温度が冷めてしまっている文章になりますがご容赦を。

本書は講義形式で著者がニッポンの小説について考える、という形をとっています。
 
話は近代日本文学(「ニッポンの小説」)に言文一致体という文体をもたらした二葉亭四迷から始まります。
この言文一致体がその後のニッポンの小説の文体の基本となっていきます。

 フタバテイは、新しい表現のツールを求めていた「ニッポン近代文学」に、裁量の武器を提供しました。
 「なにか」を表現したかった作家たちに、その「なにか」を表現することのできる言語を提供したのです。
 しかし奇妙なのは、その「なにか」がどのようなものであるのかは、実は問われなかった、ということです。
 いや、その「なにか」は「青春」であったり「近代人の内面」であったりすると近代史家は語ります。だがそれらを、「青春」や「近代人の内面」を描こうとした作家たちは、まず、「青春」や「近代人の内面」を描こうとしたのではありません。最初のうち、その「なにか」はなんでもよかったのです。
 その、なんでもいい「なにか」、ただし、新鮮で、手垢のついていない「なにか」を表現しようとして、若い作家たちはもがいていました。
 気がついた時には、その「なにか」は、明解な言葉として提示されていました。あとは、その「なにか」を表現する言語があればいい。そして言語はやってきたのです。

そうやって言語を獲得したニッポンの小説は「日本近代文学」になるとともに、その言語は「上手な文章」として特権的な地位を確立することになります。
しかしそれは、ニッポンの小説の発展を制約してきてしまっているのではないか、というのが著者の問題意識です。

これらの文章(注:島崎藤村から綿矢りさまでの4人の作家の文章)では、どの場合も、作者は、まずなにかいいたいことがあって、それからおもむろに、その内容を説明しています。そして、そのためには、言葉が必要だということになっています。もっと重要なのは、言葉というものが、細かく、ていねいに使われれば使われるほど、うまく説明ができる、ものだと思われていることです。

つまりニッポンの小説は、ニッポンの小説として確立された「小説として上手な文章」のもつ構造性(これはすべての言語がもっているのですが)に対して無批判である。その、表現したいことはすべて小説として表現できるという過剰な自信が、小説で表現したいことに制約を与えてしまってきたのではないか。

著者は自ら小説家として「ニッポンの小説」に対して違和感の正体をこのように解き明かしていきます。
結論を先取りしてしまいましたが、そこへの紆余曲折のプロセスが、思考実験として、そして昨日の冒頭の「ヴォイスを割る」実例とても面白く読めます。



僕自身は小説に対してはそのような違和感を持ったことはなかったのですが、世代的にはひとまわり上の全共闘世代のいわゆる左翼的な言辞には違和感を持っていたことを思い出しました(その関係で、演劇はずっと食わず嫌いだったりします。)。
また一方、それに対する右翼的な言辞にも左翼と共通の違和感を感じていました。
結局自らの言葉の構造性に無批判なところ(だからお互いに話がかみ合わないし、左翼同士ですらかみあわない)は共通していたわけです。

未だに強い言葉で熱く「正しいこと」を語られると、「ホントかよ?」と思ってしまうのは、このあたりの経験がベースにあるからかもしれません(なので「経営ビジョンの共有」なんて言われると、すぐ眉に唾をつけたくなってしまうんですよね・・・)。

もっともこれはサヨクなりウヨクなりの運動のありかたに起因するわけで、もとになる思想自体とは切り離して考えるべき問題です。
ということで最後も内田センセイのブログで締めます、最近の甦るマルクスというエントリから。

マルクスは私たちの思考に「キックを入れる」。
(中略)
マルクスを読んで「マルクスは何が言いたいのか?」というふうに訓詁学的な問いを立てるのは、あまり効率のよい頭の使い方ではない。
それよりはむしろ、「マルクスを読んでいるうちに、急に・・・がしたくなった」というふうに話が横滑りをし始めることの方がずっと楽しいことだと思う。
(中略)
マルクスを読んでいるうちに、私たちはいろいろな話を思い出す。
それを読んだことがきっかけになって、私たちが「生まれてはじめて思い出した話」を思い出すような書物は繰り返し読まれるに値する。
マルクスはそのような稀有のテクストの書き手である。

 

 


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