一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

『ニッポンの小説-百年の孤独』(上) 

2008-05-29 | 乱読日記

そもそものきっかけは、先日(といっても4/17のエントリなのでもう先月)ウチダ先生のブログ「ヴォイスを割る」 にあった、「私」のレベルをどこまで割れるか、すなわち「いまこの文章を書きつつある私のメカニズムそのものへの批評的自己言及」は難しいという話。

たしかに、自分を擬制的に「定型的なものいい」と「壊乱的なものいい」に二重化してみると、話はとんとんと進むけれど、最終的にこの言葉の基調音は「攻撃的で皮肉で嘲弄的な壊乱者」の批評性を上位においた秩序に帰着してしまう。
自己批評、自己否定の契機を自分は自分のエクリチュールにビルトインしていると思っている書き手のほとんどは実はただの「腹話術師」にすぎない。

つまりテキスト、語りの深度は、限りなく問いかけ続ける運動の中から生じる、ということなんだな、となんとなく考え、そういえばと東浩紀『存在論的、郵便的』を思い出したものの、広げてみると付箋がたくさんついていて、「ここを読めばポイントがわかる」なんて本ではないことも思い出し、まずはそこから始めようということに。
この本は全体が壮大な思考実験なわけで、再度斜め読みしてその一端にふれつつ、ああ、こういうことを書いていたんだったなぁ、とか以前はこんなのを読む気力があったな)と感慨にふける。

思考はplusを、すなわち「超」を扱う。デリダの「超」は存在者を転移=中継する(übertragen)。受容器(コーラ)として働くその「超」は空虚かつ中性的なものであり、ハイデガーの「超」、新しく出会う存在者をつねに自らの圏内へと置き換え同化し、まさにその置換作業によって自らをそれら存在者を超えたところに(über)据える(setzen)「超越論性」の運動がもつ、充溢した固有性を決してもたない。ハイデガーの思考は固有名を扱い、そこでは「思考」という哲学素もまた固有名化される。対してデリダの思考はコーラに曝され、そこでは「思考」という後はつねにブランクのまま放置される。その語はvouloir(*)の位相で相手と転移を起こすためのひとつの戦略拠点にすぎず、それゆえ自らは「何もvouloirしない」。以上がハイデガーとデリダ、存在論的脱構築と郵便論的脱構築とのあいだの理論的差異であり、またスタイル的差異である。
(* 間違っているかもしれない注:「欲する」という意味。ハイデガーにおいては存在者の領域に意志=感心が先駆する(さらに注:「ここで『関心』とは、存在者の場である世界全体を成立させながら、かつそれ自身すでに世界内に宿る現存在の自己言及的先駆性、つまり前掲図におけるクラインの管の循環構造を意味する」ああ、きりがない・・・)こととの対比)

そうこうしているうちに、内田先生のブログの最後に

「私」を割る技術の洗練について、さらに実例をおめにかけようということで、今度は高橋源一郎さんの『タカハシさんの生活と意見』の1頁を読む。これはあまりに凄い多元構造なので、残り時間ではとても解説できないので、また来週ね。

とあり、そういえば高橋源一郎の『ニッポンの小説-百年の孤独』も買ったまま読んでないことを思い出したというのがそもそものきっかけでした。


ということで、前置きが長くなりすぎたので、感想は次回に。 

 




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