手結港。
高知市から車で2-30分走れば 香南市の 手結(てい)港に着きます。
小さな港ですが 全国でも珍しい跳ね橋(可動橋)があり これを初めて見た
一昨年 blogに載せた記憶があります。
台風が来る前に撮っておこうと出かけ 着いたときはちょうど橋がみごとに
上がっており そこを航行する船を撮ろうと 慌てて横から見える場所まで
行きました。
三脚を構え撮っていた男性が 船はもう全部通ったそうです 朝からずっと
撮っているが 看板の時間通りには開かないですと言い 聞くとTVの番組に
使うそうで 手結港一帯を撮りに 東京から来たと言います。
こちらでも放送がある民放の ナニソレ何とか・・・という番組名でしたが
聞いてもすぐ忘れ 放送日はまだ決まってないそうです。
やがて跳ね橋は下り始め 何ごともなかったかのように 普通の橋に戻りました。
350年前の江戸時代初期に作られた 石の常夜灯や港を囲む石垣は 河口の岩盤を
人手により掘削し 石積みした 日本最古の掘り込み港湾 だそうです。
3-4年前 日帰りバス旅で行った 広島の鞆の浦に 雰囲気がよく似ています。
こちらが手結漁港で 港を囲むこちらの石垣も 手結港を作った350年前のものです。
跳ね橋脇にある 展望台からはこうです。
この手結港を作った 土佐藩家老野中兼山は 室戸港 津呂港など多くの港と山田堰
など用水路の建設で新田開発をし 土佐藩の繁栄は 兼山の尽力によるものが大です。
しかしこれら土木工事の成功は 過酷な労働を強いており 領民の不興を買い失脚し
兼山は 県西部の宿毛に幽閉された直後 49歳の若さで亡くなりました。
ここまでは何となく知っていました。ところが ここからの恐怖を今回知りました。
野中兼山には 4男4女の8人の子がいましたが 兼山の死後藩は報復を怖れ 全員を
宿毛に幽閉しました。8人の子は皆幼く 下はまだ2歳の男子で 男子の全員が死亡し
男系が絶えるまでの40年間 屋敷の外へ一歩も出さない 見張り付きの幽閉でした。
子どもたちは成長するにつれわが身を嘆き 病死 狂死 自殺で半数の子どもが命を
落としたといわれ 土佐藩はなぜこれほどまでに むごい仕打ちをしたのでしょう。
報復を怖れ 血縁の男子全員を葬るとは 戦国時代は当たり前に聞きましたし 現代
でも 核をなかなか手放さない隣の国では 当たり前に実行していると聞きます。
父の死後 4歳で幽閉された野中婉は 44歳で自由の身になったのち 猛勉強をして
医者になります。
高知出身の 大原富枝さんの代表作『婉という女』は 過酷な運命を生きた野中婉の
生涯を綴ったもので 勉強不足の私は まだ読んでおりません。
理不尽な罪状で島流しとなり 直後死亡した野中兼山。兼山の死後40年の長きに渡り
幽閉され 外の世界を知らず育った娘の婉 まだまだ知りたいことだらけです。
県民は野中兼山を気の毒に思い 県内のあちこちに 兼山ゆかりの碑を建てました。
県立公園五台山には 立派な兼山神社があり 県民の憩いの場所になっています。
土曜日に手結港を撮っていた東京のカメラマンは あの日の最終便に間に合ったかな
空も陸も 全ての便が止まり 少しずつ風が強くなった 今は日曜日のお昼前です。