あはれ
秋風よ
情(こころ)あらば伝へてよ
---男ありて
今日の夕餉(ゆふげ)に ひとり
さんまを食(くら)ひて
思ひにふける と
さんま さんま
そが上に青き蜜柑の酸(す)をしたたらせて
さんまを食ふはその男がふる里のならひなり
あはれ 人に捨てられんとする人妻と
妻にそむかれたる男と食卓にむかへば
愛うすき父を持ちし女の児(こ)は
小さな箸(はし)をあやつりなやみつつ
父ならぬ男にさんまの腸(はら)をくれむと言ふにあらずや
あはれ
秋風よ
情あらば伝へてよ
夫を失はざりし妻と
父を失はざりし幼児(おさなご)とに伝へてよ
---男ありて
今日の夕餉に ひとり
さんまを食ひて
涙をながす と
さんま さんま
さんま苦いか塩っぱいか
そが上に熱き涙をしたたらせて
さんまを食ふはいづこの里のならひぞや
時代は大正 和歌山県新宮市から東京の大学へ進学した男は 勉強はそっちのけで文学に傾倒
して ついに大学を中退しある文豪に師事するようになり 才能豊かな文豪から 文学的に
大きな刺激を受けます。
恋多き文豪はこの頃 あろうことか妻の妹とねんごろになっており そのため妻は夫から冷たく
邪険に扱われていて 文豪の家に出入りするうちに 男の同情がいつしか妻への恋心へと
変わっていきます。
この時すでにわが妻に逃げられていた男は 文豪に 妻と別れてくれるよう頼みます。
一旦は承諾した妻との離縁を 後に文豪は意をひるがえし断り これをきっかけに二人の仲は
決裂します。
妻には逃げられ文豪の妻とも添えず で失意のうちに故郷に帰ったある秋の夕餉に 男は秋刀魚
を焼き 涙を流しつつ一人で食べます。
数年後二人の男は和解し 文豪は妻と正式に離縁して 男は文豪から妻を譲り受けた形で
結ばれます。
文豪は 「妻とは別れ 妻は彼といっしょになる 娘は妻についていく」 との声明を発表し
この『妻譲渡事件』は当時まだ姦通罪があった時代の スキャンダラスな大事件として
騒がれます。
愛うすき父を持ちし女の児(こ) とは文豪の子で 妻譲渡前の事柄と思われ 当時はまだ文豪の
妻であった女と三人で送った日の光景を ふる里の空より 恋焦がれ綴った詩と思われます。
男が泣きながら秋刀魚を食べたその不遇な時代の詩 『秋刀魚の歌』 は男の代表作となり 一方
文豪は 奔放な性格ゆえの耽美な作品を数々残し という話となっております。
男は譲り受けた妻と 仲良く暮らしたといいます。
男の名前は佐藤春夫 そして文豪の名前は 谷崎潤一郎です。
この話は私が高校時代 谷崎文学についての授業時に先生が話してくれ 授業の内容は覚えて
おりませんが 秋刀魚の歌にまつわる話は 脳裏に残りました。
秋刀魚がやっと大衆魚の価格になり 焼いてみたら思い出し 詩の一部を抜粋してみました。
男のふる里の青き蜜柑は 蜜柑どころ和歌山のもの 土佐の青き蜜柑はブシュカンとなりました。