伝染病、、、感染症の怖さを知っている専門家は
TVの番組担当者のように、話すことが生業ではないだけに
ぽつり、、、ポツリ、、、という
言葉の意味を理解する前に、、、
表現は小さいでしょうけれど、、、
放送業界の人なら、、、
泣いてしまうほどの危機感を感じていらっしゃるのが
お茶の間には伝わってきています。
静岡で昭和12年年ごろ父母が住んでいた家です。
医寮崩壊になると、、、
イタリアに準ずることになりかねませんね、、、、
立派な棺桶が並んで、、、
イタリアは、世界にコロナの危機を発信しているのでしょうか?
それとも、、NHKが日本を守るための、、、撮影でしょうか?
働きかた改革という、、、
平和であることが条件の上に成り立つかもしれませんが
病院というのは、病気と言う「平和でない状態の場」であるだけに
患者さんの病状が、医師を休ませてはくれないのだと
今回、多くの人はTVで見ることが出来ましたが、
世間の目は
民放TVで放映の優雅な生活が医師の家庭と考えがちです。
もちろん、、、親代々医師で有る場合もありますから、
生まれながらの「家光」のような、
堂々と、、、ビジョンを語り、、、品位も、技も、語学も、秀逸で
ハーバード大学オックスフォード大学で学び、、、
インターナショナルなセンスのドクターもいらっしゃいます、、、がー
ふつうは、地域の保健衛生に沿って、
住民の健康を守るための医師となり
子育て中のお母さんから、さらに睡眠を減らしたような働きぶりで
一人前の医師となると、さらに、研修医の指導やら、何やらかんやら、、、と
ほとんど家に帰ってくる時は、風呂を浴びて、爆睡状態になります。
患者さんの状態を、電子カルテに打ち込みながら、
話を聴いて、病状を説明して
薬を処方したり、画像診断したり、、、研究したり、医師会に出たり
早朝の勉強会は病院の医師の皆の、報告などもかねて、
命を預かる以上、
ワンチームのつながりも必要不可欠となるのだろうと、、、
家庭の茶の間は想像しています。
結婚して、北海道の地域をローテーションしながら
留萌では、零下マイナス20度の時、
院長宅に夫婦で呼んでいただいているときでした。
病院の住宅に住んでいた関係上、
10分以内の近くであることがメリットだと言っていましたが、
留萌の雪は、半端ではなくて,、雪で、家が埋まっているようでした。
穴倉のように、道路から、玄関まで雪の壁が背丈より高いのでした。
この写真は札幌の我が家の庭ですが、、、留萌は、、、こんなものではありません!!!
先生はマイナス20度の日も、
ズボン下に着用するタイツのような
暖を取る下着は付けないで
病院に着いたらすぐに、上下の白衣に着かえるから、
すぐに、患者さんの所に駆けつけられるのだと言っていました。
地方の数少ない外科医の苦労が、
伝わってくるような院長宅訪問でした。
その日は、主人は、病院に泊まり、宿舎に帰ってきたのは数日後でした。
月給は16万円でした。
当時は北海道の留萌では高給だったアルバイト出張でした。
6畳一間のワイヤーがはみ出た二人掛けの椅子。
達磨ストーブ、
崖の上の日本海の海風がヒューヒュ―と虎落笛を奏する波の怒涛、、、
昭和44年、、、このころの北大卒の外科医の卵は
炭鉱や、へき地をローテェションして
3か月間ごとに、時には4~5か月ご出張研修をして
又、ベースキャンプの大学病院に戻り研究して
博士号を取得して、、、初めて、自分の意思を表示できるという
徒弟制度にも似た、技術の取得を、
二間の風呂の無いアパートに住みながら、、、
妻と言う立場から視てきました。
東京で、小学校から、大学まで、親のおかげで、、、
世間の荒波を知らずに育った私は
目から鱗でした。。。。。!
日本舞踊を8年も習わせてもらって、
歩き方にも「しな???」をつけて、
振り返る時も、、、見返り美人の切手を横目に見ながら、、、
舞台げいこをしていた、、、
医師会の親睦を兼ねたお稽古、、、。
極楽とんぼの中学校までの、、、甘ちゃんでした。
私の父も外科医の医師でした。
「外科はね、、、昔々、、、床屋さんだったのだよ、、、。
パレと言う人がね、床屋でやっていた瀉血などや、手術を
学門の域にまで高めて、、、外科が学問として今日成り立ってるんだよ。」
昔は、、人間の身体に刃物を充てるなんて、、、非道だったらしい。
しかし戦場では、刃物傷や、弾丸傷、爆破傷を手当てしているうちに
学門とか、世間的座標の高低ではなくて
「イギリス医学を取得していた事を、良かったと思った。」
父は、、、本当は、、、
農学部に行きたかった、、、地球の目で考えたい学生だったと言ってい。。
私の母の一言で、北海道の外科医の妻になったように、
父の時代は、家訓が、、、
「東大に入れなかった場合医師として、国の為に貢献しなさい!!」
大正時代の、、、富国強兵の時代の、とんでもない家訓だと、、、怒りさえ感じる。
父は東京大学を落ちて、、、大泣きして、公園で泣きじゃくっていた時
母が、国立音楽大学の学友と3人で、、、
「どうしたの?」と
声をかけたのが、、、知り合ったきっかけだそうです。。。
話は横道に入りましたが、、、
父に言わせると、、、
医学と、農学は隣りあわせの学門だというのです。
地球と話し合える農学部の研究をしたかったと言っていました。
「外科医になってしまったよ、、、
産婦人科だと戦場に行かなくてもすんだのでしょうかね?」
戦地で、西洋医学を指導する立場ではありましたが
終戦まじかには、、、
本来なら、戦場の勤務ではなかったのですが、
トラックが迎えに来て、野戦病院で勤務したとき
従軍の手帳、千人針、神社の寄せ書きのある旗、、、等のセットを受け取り
生死の境を兵隊とともに過ごしたそうです。
それでも、軍医の居る隊は猛烈に強かったそうです。
感染症の新型コロナウイルスの侵略は人間の体内を狙ってくる。
これは戦争です。
軍医のいる隊は、、、強かった!
現場の医師に必要な物資と、収容の建物が必要になってきます。
戦争でかなり疲弊して帰国した父は54歳で過労死しましたが、、、
「軍医の居る隊は、、、強かった、、、」
何かの時、、、ポツリと言った父の言葉が忘れられません。
医師は尊敬は出来ますが、、、医師の妻には私は向いていません。
相手に振り回されると、、、自分が無くなるからです。
主人は外科医ですが、私は付き合ったこともありません。
母から、、、
「お父さんが若くなって、家に来てくれるというから、、北海道で、2~3年暮らすのは好いでしょう。」
母は未亡人になってから、、、毎朝仏壇に朝食のァ全をつくって差し上げていましたから
父の事が頭にいっぱいだったのでしょうね。。。
その時、私は、総合病院の薬局で、薬剤師をしていました。
未亡人の母の
「父が若くなって、実家の外科を継いでくれるというのよ!」
その言葉に、大きく人生の航路が変わりました。
「医師をする」、、、
世間から優雅に見える医師の妻の立場は
医師をする、、、という、
医師の仕事しか出来ない時間貧乏の、、、全ての雑務をすることだと。
母は、、、言いました。
顔に泥を塗って、医師をする人の私物となってサポートして、
初めて、一人前の医師が生まれるのだとも言った。
私は虚ろに聴いていた。
一度自分はここで死んだと思って
未踏の北海道に行かねば、、、と
不安の方が強かった。
母は戦時中だったためか、富国強兵政策の日本だったとか?
戦場近くで、
西洋外科を指導する父のもとに行っていたらしい。
戦時下であった事もあり、、、
8人の子供を産んで、結局は4人が生き残った。
激動の終戦と帰国と、
東京の実家の焼け野原を観た時、
「都は野辺の焼け野原、、、ひばりの上がるを観乍ら,、、落ちる涙は、、、」
8年ぶりに帰国した父の感情は、、、
京都の消失のような気持ちと同じだったとか、、、
そして、母が7歳の時に死んだ実母が、、、
振り返り振り返り、、、
故郷の新宮をとおり、古座川を遡って
アメリカから帰国していた祖父の住んでいた
南紀の山奥の山村へと、、、母を導いたのか?
戦地で子供を失った、、、
半狂乱の母の心を癒すには母の生まれ故郷が良かったのか?
父は、、、無口な人でしたが、、、
母を心身共に回復させるのは故郷だと思ったのではなかろうか。
40歳を過ぎて、子供の戦後教育の為に
最後の頑張りを見せて、、、
東京に、初めての個人開業の
医療施設の院長として、
父の生まれ故郷に,、、
鮭の回遊のように、
四十半ばにして、東京と言う父の生まれた故郷にたどり着いて
、、、54歳で、、、
一日中手術や診療や、往診などで
過労死したのは、、、残念でした。
保険制度が始まって、、、
手術の後の抗菌剤投与が、理解されないことがあって
薬の投与は、
基金事務所から代金が受け取れないという時代でした、
戦後の患者さんの方も、、、
退院の前夜、病院から居なくなってしまったり
父は一切集金はしなかった人でしたから
、、、晩年、、、
「あの時の入院費を、受け取ってください。」。。。と
患者さんが支払いに、、、何年も後に来たり、、、
戦後の復興の時代は、医師は無料奉仕のような仕事に追われました。
父の卒業した慈恵会医科大学は、
「病気を診るのと、、、病人を診るのと、同時に教えていた大学だったそうです、」
父は、、、環境。。。人間関係。。。経済状態、、、挫折や、破産、、、失業に
敏感に、わかるセンサーが有って、、、
「払えるときで好いからね、、、」
代金をもらわないものですから
母は、、、「お人よしの、、、バカのうちだわ」と、怒っていた。
どちらが、、、正しいんでしょうね、、、???
新型コロナウイルスで、、、もしも、、、
自営の方たちが、、、
店も、、閉店して、、、医療費も払えなくなったとき、、、
父なら、どうするのだろうか?
どうしただろうか?
国は、、、どうするのだろうか?
新型コロナウイルスとの戦いは、、
、医師にとっては
「戦場の従軍と変わらないのではないか?」
医師だから、、、
患者さんを診るのは仕事だからと、、、
現場で頑張っているが
生死を懸けた感染現場勤務の医師は、、、
戦場で、
武器も、
援軍も
マスクにも事欠く状態で
収容する施設に事欠く状態になるのが考えられるとき
まず、、、現場を援助する行動が必要だと思う。
政府は国会答弁で野党と喧々諤々やり合わなば、、、ならないときなのだろううか?
茶の間の婆ちゃんは、、、近視眼的すぎるのだろうか?
政治は、、、どのように対応してゆくのだろうか?
この、、、剣ヶ峰を無事に通過するために、、、???
首相を「普及不要な質問」や、
詰問じみた言い方で疲れさせては
戦場の、、、医療現場には、、、物資が届きませんよね、、、きっと!、、、
サマワに行った髭のハンサムな兵隊さんが帰ってきたときには
国民全部でTVの前で迎えましたよ。
世界の中の、、、ウイルスとの戦いですよね。
手術は成功したが、、、患者さんは死んだ、、、という事にならない
議題の、、、トリアージを、、、誰がしているのでしょうね?
今!早急にせねばならないことは、、、
東京を、コロナから守り
住民を守ることではないだろうか?
日本は、見えないウイルスと闘っています
。。。。戦場です!
「軍医の居る戦場は強かった、、、」
父は死んでしまう、、、何日か前に、、、
空を見つめながら、無表情で、言ったことがありました。
寡黙で、口下手で、母にやりこまれては、、、口ごもっていた父が
「軍医の居る戦場は隊が強かった、、、」
1人の医師が役立てる医師になるのは、、、
国も、親も、、
一億では足りない、
教育費をかけたはずです。
コロナで、、、医師が死ぬことのないように、、、
現場の補給を第一に議論すべきかもしれません。
補給路の無い所に、、、勝利は無いから、、、
新型ウイルスに勝利して、、、医療大国日本で
オリンピックの世界のアスリートを、、、
安心して迎えられるように、、、祈っています。
茶の間の主婦が、、、思いつくまま、、、そこはかとなく書き綴れば
あやしゅうこそ、、、もの狂ほしけれ、、、というような、、、
まとまりのない分になりましたが、
これは個人のストレスを思いっきり吐き出した、、、個人的な、、、
空気清浄機のようなブログです、とりとめも無く書きましたので、、、
こんな意見もあるのだと、、、通過していってください。
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