花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

冬を生きる

2020-10-28 06:57:15 | Weblog

楽しいことも、、、一杯あったに違いない。

50年前、ひょんなことから、

札幌に住むことになった。

11月に結婚式をあげて 

私の知人は、顔見知りになったばかりの

主人と、、その父親。

東京から、出席してくれたのは母だけ。

そして、結婚のきっかけとなった、、、後輩の薬剤師ご夫妻。

後は、主人を受け入れてくださっていた、、、大きな医局。

北海道に住むという事は、

主人になる人の影を生きる

季節なら、、、冬を生きる、、、

日本でいうならば、、、一番厳しい冬を生きるという事でした。

北海道生まれではない、、、

北海道に来たのも、、、初めて。

言葉も、習慣も、考え方も、、、南紀の串本で産まれ

空襲の中を、南紀の山奥の疎開地にと、

   栄養失調の生まれたばかりの赤子は運ばれていった。

たどり着いたときは、、、一粒の米も無かった、、、と。

母は言っていた。

 

終戦一年前の事であった。

あたりは数件しか農家が見当たらなかったらしい、、、が

南紀の川に沿って、集落が七か所、、、牟婁群に東西、、、など

区切られた集落が点在していた。

戦争で出兵した医療人は、疎開先には居なかった。

学校の先生も、校長先生は疎開をしてきた先生でした。

近くの大きな銀杏の木の生えたお寺の和尚さんが先生でした。

御習字は、高野山に「競書会」と言うところが有って

一年に何度か、祖父に手を引かれて、高野山に行きました。

女性が登ってはならないという坂が有って

終戦後は、そのようなしきたりは無くなったようですが、

坊さんは皆,毛筆の字が お上手なので、行くだけで、啓蒙されました。

今はお亡くなりになってしまいましたが

宝亀院と言う一千年以上は前に建立したのではと思われるような

国宝になっているお寺に宿泊しました。

 

あちこち経年変化を余儀なくされたお寺は、

規則では修復は面倒な手続きが要るとかで、歴史を重ねた木材が

風雨にさらされて、何とも表現しがたい山中の古寺の景色でした。

世界遺産になる前の,、、霊気に満ちた高野山は

風雪のままの、建物は客間は無くて、水道も有りませんでした。

手の切れるような冷たい水は

宿泊者の朝の御勤めには、目覚まし時計以上でした。

顔を洗っても、手がしびれました。

それでも、お坊さん方は、墨染の衣で、寒い本堂に座り

長い長い、、、お経を唱え、朝の御勤めをしていました。

     世界遺産になる前に、何度か高野山に行けたことはラッキーでした。

高野山の冬は、子供の私にとっては、,、、

          かじかむぐらいの寒さだった。

宮本さんと言うお坊さんは

小坊主さんの時から、母を知っていると、、、おっしゃいました。

「私が小坊主の時、、、貴方のお母さんに逢ったのですよ。」

母が高野山に行っていたことは知ってはいたが、

宮本さんと言うお坊さんに、覚えていただけるような

印象を、母が与えられるような原因を知りたかった。

「大勢の人が、高野山にやってくると思うのですが、、、

母の事を、覚えていてくださったというのは、何か特徴でもありましたか?」

私の知らない母を、教えてもらいたかったのです。

「あなたのお母さんは、多くのお見えになられる方々とは

     全く、、、違っていました。」

「今,あなたが座っていられる、虎の墨絵の前に、貴方のお母さんも座られていました。」

住職との会話を、小坊主の私は控えていましたと言っただけですが、、、

人生そのものの、大きな影響を受けた一瞬でしたともいった。

それ以上の事は言いませんでしたが、

達筆な字で、半紙の字を書かれて、お名前も書いてくださり

私に持たして下さいました。

        今はもう、、亡くなられて、お孫さんの時代になっているでしょうね?!

弟が母の遺言のとうりに、、、父の逝った時と同じところに行きたいと

弟が、冬の中、、、1人で、母の位牌を抱いて、高野山に登ってくれました。

その時にはまだお元気の様子だったのではと思っています。

次の歳の春には

北海道から、主人にもついてきてもらい、

母とのお別れに行きました。

主人は宗派が違うというので、ためらっていましたが、

冬も終わって、春がやってきた時

一緒に、高野山の宿坊として表示されている、

観光業者の手配で、観光盛んになった時代の寺に宿泊しました。

その時は、宿坊から、宝亀院を訪ねました。

それから、何年かたって、次男が医科大学にやっと、、、合格できた時

年子の次兄夫婦と、姪っ子と、再び宝亀院に泊まりました。

朝の食事が、高野山の「護摩豆腐」を戴く事が出来ました。

本当に、美味しくて、高野山の水で造るから、、、こんなに美味しいのかと、、、

今も、、、豆腐を食べに、、、もう一度行ってみたいと、、、願っています。

旧い、、、確かに、、、国宝にはなるでしょう、、、

建立された当時のままの、

     時代をしのばせる古さは

           胸に来る素朴な自然と一体の

                不要不急の物は一切ありませんでした。

コロナの閉じ籠りの毎日ですが、、、

           高野山を思い出しながら、

                お寺の坊様の暮らしを考えるとき

天と地と、、、天知る、、、地知る、、、、人間と言う者たちよ、、、!

多くの仏像が、「甘い!、、、修行しなおしなさい!」

禅のこん棒で、、、頭をたたかれた思いだった。

       世界遺産になる前の1990年頃の高野山に

               主人を案内できたのは、

                   外科医だった父の居る高野山に

                      母が、私たち夫婦を

         無理やり案内して行ったような、、、主人からすると

                 考えても居ない成り行きで

                    高野山に行けたと、感慨深げでした。

            結婚したばかりの札幌には、

               正月が来る前に、小さな新婚のAPは家事に逢いました。

      冬の始まりに、、、焼け出されて、、、大学院生との結婚生活は

     命からがら、、、階下の若夫婦の喧嘩のとばっちりの、プロパンガス爆発でした。

               主人のそぼが急逝して、私だけが東京に行ってた留守宅でした。

            当時、大きな医局の大学生は、深夜まで、あっちこっちに出張でした。

           その日は。当番では無かったが、急に、夕張への出張を頼まれて

          自宅のAPには帰宅せず、、、夕張に宿泊していました。

              東京で、母や、親類が用意してくれた

              結婚の時の着物も、衣類も、タールで、真っ黒になっていました。

         黑いビニール袋の20枚では足りなくて、捨てるのには大変でした。

            冬の間は、留萌の合同宿舎の共同台所、共同トイレ、、、しかも、、、

                 真冬のマイナス20度の時も、暖房もない🚻、

               あの一か月は、シベリヤの翼竜から帰還できた叔父さんの

                 笑い話に話す、、、トイレの様子を思い出し、、、

                   我が身になると、笑い話どころではありませんでした。

              せっかくの、男の子だったのに、、、

                  冬の暮らしを知らない、、、未熟な若い母親は

                 母親であることを、天の力で、却下されてしまいました。

               追い打つように、、、留萌小学校が焼けて

                 宿舎の庭にも火の粉が飛んできました。

                 yasika シングルエイトで、留萌の火事を記録したのですが

               ワンマンだった主人は、学校関係者に切り取って、渡しました。

       あんたが持っていても、単なるカジノ映像だが、

            留萌小学校にとったら、歴史になるから、

                学校関係者に、切り取って、渡してきたと言った。

              北海道には寒い冬がやってくる。

      それから4年間、、、北の冬を一か月ごと、ローテションするのだった。

   結婚と同時に3か月ごとに、留萌への1か月研修医の生活が始まった。

            息子が生まれ、一歳の時は、

           あたたかな余市の、病院住宅に行くことになった。

病院住宅に空き家が出来て、やっと一軒家に住むことになった。

 洗濯機が無いので、タライにおむつを入れて、湯を沸かし

            毎日干すのであるが、、、、三か月ごとの、一か月なので

      洗濯はタライに入れて、しばし原始の夫人たちの苦労を味わいながら

             テレビのない生活が、自然に目向けさせてくれた。

 

           余市の冬は、留萌の冬を経験した者にとっては

            あたたかな、穏やかな冬であった。

           ストーブだけは有るので、お湯がいつも湧いていて、

            洗濯も、快適な木立住宅であった。

           2~3年のうちに博士号を取得して東京に帰る約束が、

            世間知らずの、主人の思い込みであって、

            実際は7年かかって、、、やっと

         「感動脈のバイパスに関する動物実感が博士論文として、

               北大から、博士号が授与された。」

           臨床外科に携わる、心臓や、循環器にかかわる手術をする医師としては

      実際の手術や、診療に追われて、論文を書く暇が無かったという事が

           7年も、かかってしまったという訳だそうです、、、

                主人の言い訳かもしれません。

                   事の真偽は解りませんし、、

                  、別の世界の出来事だ㋐から、

             こうして、、、我が家に入って母と暮らし

                東京に帰るはずの外科医の計画は

                  世間知らずの、、、たわごとであった、わかったのは

                二人目の男の子が生まれた時だった。

              母からは「30歳代で東京に帰還しないと、、、

             お父さんのように、無理がたたって長生きできないよ!。」

         母からは、、、30歳代で,、東京に帰らないと、、帰れなくなるよ!、、、

             いつしか電話攻勢も無くなって、種じっは40歳を過ぎてから

              助手として、大学に帰って行った。

 

               もう一度、、、のんきに人生をゆっくり歩けるのなら、

               主人には振り回されないようにしないと、、、と

                思うこの頃です、

 

               世間に疎かったのは、、、私の方だったと思います、

              寒い冬を、、、も一度思い出して、、、

        コロナで閉じこもっているが、、、札幌の冬のまともな寒さを

            今は、、、、これなら。。。戦える!、、、頑張れる!と。

          現役の薬剤師として、総合病院に勤務中であったのに、

              しかも、父母の苦労を知ってい乍ら、、、

                母の苦労の軌跡を知ってい乍ら

                 初代の外科医が、一人前になる間には

                     家庭を振り返るどころではナイノヲ聞いていながら

 

          友人も、学校も遠い、親戚も姉妹も会えない、、、

         他人の縄張りに、、、外科医を迎えに、、、見知らぬまま、

            付き合ったことも無い若き外科医の卵と結婚するなんて、、、

              、、、

 

        母の場合も、祖父が捨て身で、戦地まで迎えに来てくれたから、

          特別の帰国を許されたけど、、、

            私には、、、迎えに来てくれる父は天国に行ってしまっている。

         人は、、、愛する者に、、、自分が、、、どんなにつらかったかを

          理解してほしいと思うのかもしれない。

         母は、戦地の近くの若き日の事を、

           娘の私に理解してもらいたかったのかもしれません。

         さんざん苦労をした挙句に、

           戦争と言う大きな障害が有ったからとはいえ、、、

         開業も軌道に乗り、、、これからという時、伴侶を無くして

           さすがの母も、、、娘だけには、、、

          心底、孤独を理解してほしかったのかもしれません。

         苦労の結果、東京の開業を一緒にやれる日の為にも

       私と言う娘が、、、、

          いつまでも、娘として、寄り添う女性の友であることが

            母の城であることだったのかもしれません。

        

            まさか、、、このまま、、、北海道で、人生を終わる娘だとは

           考えなかったのかもしれません。

          母は、近所の、方々に、、、娘夫婦が還ってくる日の為にと、、、

           いつも、夢を語っていたと聞きました。

           北海道には来ることは、、、、勤務を辞めて、貧困に耐えれば出来た。

         しかし、、、

          東京に再び帰ることは、、、難しかった。

              

          友も、卒業した学校のクラス会も、、、親戚も、、、

          今は、、、顔も思い出せない、。。。 

             老人になるという事は

             長い長い冬を、、、楽しみながら、、、

           1人で生きることかもしれません。

        1人で生きるから、、、主人や子供たち孫たちとも、、、

            生きてこられたのかもしれません。

     

南紀で産まれ、小学校から大学まで、、、

   のうのうと、、、東京の気候の中で育った私は、、、びっくりした。

寿町の崖の上の、海に面した宿舎であった。

  TVはNHKも映らない、、、雨降り画面であった。

    アンテナが無いので、、、針金で出来た鍋敷きを

日本海に向かって、斜めに傾いでいる物干しにしばりつけた。

画面はシャバシャバの雨降りの中に、、、何やら動いているという映像。

しかし、、声ははいる。とぎれとぎれで、、、何か言っている。

6畳ぐらいの広さの一部屋で北東の薄いガラス窓には

   雪の結晶の氷のレースがカーテンのように視界をふさいでいる。

ガラスが、触ると割れそうなほど、、、窓がしなっている。

 

頼れる人は自分自身だけ!、、、これが本当の冬だと思った。

外科内科の看板を降ろすのは、、、父の死を受容するようで

 母には、一緒に戦争を生き抜いて、3人の子供は失ったとはいえ、、

無事に戦地から帰還して、

   疎開地にたどり着き

        一粒の米から、

            14年無医村で戦後を村人と共に生き

               来るべき時が来た子供らの進学で

                 鮭が故郷に遡上して

                  卵を守るかのような、、、東京の故郷に

                      開業して、、、長男が

                  内科医としてデヴューしたと思った矢先、、、

             前日は、患者さんの手術をしていたのに

         明け方には、、、大往生、、、54歳の2月だった。

      母には配偶者の人生が終わった事を受容できないと思った。

           

   東京で、、、本当の冬を味わった。

 両親の疲労に気が付いていたのは長男の内科医だけだった。

    早朝、、、5時前に、4人の兄弟は長男に起こされた。

        囁くような、、、静かな声だった。

     「お前ら、、、皆、、、起きなさい、、、」

    朝日が昇る前だった。

         父の手はあったかかった。

            兄が心臓マッサージを始めた。

               父の手を握っていたままの私には、

                  ひんやりとしてゆく父の手の

                    つるつると、、氷の表面のごとく

        冷気がまして、硬直してゆく父の手を、放すことはできなかった。

            兄は、、

               

                 母を起こさなかったのは何故?、、、

          母は体はこの世に有っても、

           妻としての母は、父と一緒にこの世を旅立ったのだろう。

         長男が冷たくなってゆく父の

            心臓マッサージを辞めた。

               

      「後の事は、、僕が背負う、、、安心して旅立って行ってほしい、、、」

       兄弟は、誰も泣かなかった。

         翌々日からは本当の冬が始まった。

          多くの患者さんが、突然の「かかりつけ医」の

            急な逝去が信じられないのか、煙になるまでついてゆくと言い出して

    バスを手配して、最後の患者さんのお別れの中で、

            父の煙は空高く消えていった。

           

              煙を視た時から、、、涙があふれて、、、止まらなくなった。

 

            大学の部活の仲間の皆さんが来てくれていました。

          北海道からは、高校時代の同級生も、

                      急遽駆けつけてくれました。

      こんなに友達が居るのに、、、

              涙が止まらなくて、、、止まらなくて、、、

 

     この場で、父への悲しみは、泣きつくしたのを思い出しながら、、、

       もう一滴の涙も出ないという、悲しみとともに、

             すぐに立ち上がらなければ、、、

                      母は未亡人、

 

                まだ新米の内科医の兄には

                  150人/一日の、来院患者さんは

                    一人では難しい。

             弟は高校生、、、これから医師になるという学生だった。

                

     我が家には、、、戦後、、、初めての本格的な冬がやってきた。

        戦争で、自分の建てた総合病院を無くし、

                 

            疎開地で、激務の14年、、

                

             そして、念願の生まれ故郷に回遊できたのに

                戦争引揚者や、学徒出陣んで帰還できた実弟や

                   多くの居候を家族丸ごと抱え込み

                 それぞれ生きてゆくための学校に進学させた父。

   我が子が未完成なうちに、、、過労死してしまった。

          54歳は、、、これから、、、

             新たなる日本への貢献が出来る年代でしょう!

             戦争が無かったら、、、どんなに平和な人生だったことだろうか?

    厳しい冬が来る、、、

    北海道の冬は、札幌でも、寒い日は、マイナス15度ぐらいにはなる。

         しかし、、、私にとって父の逝った昭和40年代の冬は寒い冬だった。

       主人とは付き合いも無く、、、外科医と、現役の病院薬剤師という

           仕事上の出会いであったけれど、

             外科医であった父の姿が、いつも重なり

              私にとっての主人とは、

         54歳で、やり残してしまった社会への健康面での貢献を

         一日でも長く、「医師をすることで、父のぶんも、貢献してほしい。」

            

       「医師をすることへの、サポ――ト」には

               父が生き続けることでもある様な、

                     サポートの責任を感じている。

        医師は、病気と言うブラックホールのような

        マイナスエネルギーを、

          プラスに転換してゆく、、

           、集中力と、緊張と

              学力、と体力と臨床経験が要る

               

         客商売に見えて、、、病気との戦陣であるから、

            見えないウイルスと闘い続けている続けている戦場が職場である。

       

              

      私も76歳になった。

       主人より一日でも長生きして、、、

            医師をすることしか頭になかった人生は

                  一日前まで、現役でいてほしい。

         

      本当の冬は、一杯の温かいおかゆが有れば幸せかもしれない。

 

        生きていることを、、、大切に思う後期高齢者の

              婆ちゃんの、、、思い出の、、、日記でした。

       

            大好きな、、、言葉、、、

         冬来たりなば、、、春,、、遠からじ、、、

         Heaven and hell is in your heart.

                              

     余分な事かもしれませんが

 アメリカの富豪が、coronaにかかっても、すぐに治癒したからって

  コロナなんか、、、とおまく見ないでいることが

 我が家の目下のテーマです。

    アメリカの偉い人は、、、最高の治療を受けたと推察されます。

    私が推測するのは、難しいので、

    信頼されるサイトの専門家の記述で、

    多くの意見が重なっているところを

   年の為、、、離れて暮らしている兄弟に

    知らせておきますね。

       

         たぶん

   レムでシビル

   デキサメサゾン

   VIPのみ、、、使用できる研究段階の

   患者の体内たんぱく質に極めて似せた「抗体」の投与?

   コロナに良いとされる治療全て、、、

   そして、元気なうちから、酸素吸入、、、

   あらゆるビタミンや、ミネラル、出来得る治療は全部実行したと、、、思いませんか???

   余病を抑えるアスピリンや消炎酵素、、、

   お金が有れば、、、出来ないことも、、、やってのけたという

   かの国の、、、一例報告で、、、

   自分だって、74才だ、、、、coronaは、恐くないと、、、舐めない事です。

   かの国のVIPと同じ治療を受けることは、、、

   限られた、、、大金持ちだけが出来たと、推察いたします。

  、

   運よく、日本は島国だから、、、水際で踏ん張っているだけであると

   推察されます。

   外国からの旅行者を充分に検査して、発病期間を待機していただくことは

   引き続き、、、3月明けまでは特に、インフルエンザと重なりますよね。

   病院の隔離病棟を確保して、coronaに慣れて、軽く考えないように

   若い知事さんの賢明な経済対策と、コロナ対策を、感謝します。        

         とりあえず、親戚兄弟に連絡します。