花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

なんで、、、私は人生の回想になったんかな?

2020-11-19 22:27:38 | Weblog

可笑しかった、、、アナウンサーの皆は騒々しくないので

丁度、、、にぎやかなさんまさんのアクションが生きてましたワ!

さんまさん、、、て、、奥の深い人やったんですね!

番組見る前に、、人はわからんものやね~~~

76歳と言うたら、、、戦後も、

バブルも、麦飯も、オリンピックも

万博も、、有った時代で、

エレベーターみたいに、、、

あがったり下がったり、、、

ドリフターや、寅さん、、、落語に笑いをもらいましたよ。

拓銀や日航が倒産したときは経済のショックにも

初体験しましたよ。

その時は、笑点視ることで、、、救われていた。

今日まで無事に生きとるな~~~と思うときがあるよ。

緊張のガス抜きをしてくれたんは、、、

さんまさんが相棒にしたいと思ったMアナ、、、

未来が楽しみな、お人ですね、、、。

面白かったですよ、、、お笑いの番組の、、、

奥の深い所が、、、、ホントの笑いや(*@

お笑い番組って先入観が、、、騒々しいと思っていたけれど

アナウンサーと、さんまさんの組み合わせは、、、可笑しかった、、

なかなかの、、笑いをたのしみました。

 

私の母は、7歳の時に

4歳の弟と、お母さんに死に別れています。

Mアナさんは、生きていつお父さんが、番組視てくれてるだけでも

私のお母さんよりは、、、、寂しくは無かったんのと違いますか?

私の母は実父が、伴侶を無くした後、

アメリカに行ってしまったのですよね、、、

母は幼い弟守るのは大変だっただろうと、、、思うときあるねんよ。

幸い、集落のドンの家の次男に生まれていた実父は、

親戚が多かったんよね。

親戚で大事に育てられて、当時としてはめづらしい、、、音楽大学に行ったんよ。

片親で育った母は、

我慢強い性格していてね、、、

どんなにつらいことあっても、、、泣かなかった。

戦地で3人の子供を亡くしたんよ、、、

日本に帰ってから、、、私と弟が生まれたんよ。

たった、、、一回だけ、、、戦地から、、、日本に帰れた時

涙が出たそうです。

人生そのものが戦地と同じやと、、、言っていました。

晩年、、、受験戦争で、、、子供たちみてると、、、

あんなにかわいそうやと、、、一日もお祈り欠かさなかった亡き子の事が

だんだんと、、、天国に行って、、、試験もないし、、、

死んだ子は決して可哀想やないって、、、思えるようになって

この世で頑張ってる息子達に

応援できるようになったって、、、言っていたわ、、、の、、。

男の子三人仕上げる前に、、、旦那さんにも54歳で先立たれて

愛情にはいつも、、、事欠いていた母やった。

少なくとも、、、日本で、、、、のうのうと

兄貴と弟に囲まれて、19歳まで両親の居た私は

安定した環境で育っただけに、、、

19歳で、まだ、、、大学が残ってるのに、、、死なんといて!!!

意気地なしの私は、思いっきり泣いたんよ。

男の兄弟は、、、誰も泣かんのに、、、

ワーワー、、、泣いたんよ。

運動会も、PTAにも、レジャーにも行く暇のない父やったけど、、、

母が、小さい時から、、、本当の母に育てられていなかったことと

本当の母の愛を知る前に、母親を失っているせいか、、、

他人から見て、、、完ぺきであろうとするような。。

負けない位置に陣取に行くような、、、勝負するとこあったんよね。

長男に、、、「東京大学受験」を勧めたり、、、

戦地で、8歳まで育った長男は、

弟二人と、妹無くして、、、やっと日本の、山奥の疎開地に帰れたんよ、、、。

食べる物も、弟妹の牛乳も無いので、

村の土地借りて、、、キャベツやカボチャ、、、何でもあった。

長男には山羊を買い与えて,、、10頭まで増えて、

私と弟の「牛乳の代わりに」河原まで草食べさしに、、、

山羊を10頭、、、扱うのは、、、小学生やて、、、思えないほど

頼もしい、、、兄貴やった。

中学3年になったとき、、、兄貴は叔父さんが住んでた東京に行ったんや、、、、

1人で、東京の中学に入って、叔父さんンと暮らしたんよ。

叔父さんも、学徒出陣で生き残っとさかい

日本に帰ってきてから28歳で早稲田合格して

東京都の先生、、、やった。

中学生の兄貴は、家族と別れて、

田舎っぺーから、叔父さんの先生力で、、、東京の生徒になっていったんよ。

府立第三高校(あの頃の両国高校は、、、東京大学に100人前後合格していた)

それが、、、中学生になるまでの、戦地と山奥の育ちを、、、

戦後の東京の下町のエリート志向のペンキで上塗りしてしもうたんやのら、、、。

「目指せ!東大!」に、、、親子叔父さんとも、、、

兄貴に、無理な期待をかけすぎたんやな、、、。

8歳まで、、、戦地で、、、軍医やった父に合流して、外国に居たんやから!、、、

日本語が、侘びも,寂も、、短歌も、、、俳句も、、、万葉集も

頭が良かったけれど、、、付け焼刃の詰込みでは、、、どうにもなりません。

物理なんかは、大学教授の本の間違いを見つけて訂正したりして

その教授に見込まれていたりしたけど、、、

国語は、、、「恵み」と言う字が、、、読めなかったりして、、、

社会科などは、、、年代を辞書位沢山覚えていた兄貴やった。

でもな、、、普通、、、なんで?本能寺の事件が起きたか!?

反逆した光秀のイデオロギーみたいな事を興味持つでしょう?

兄貴は、、、何年に起きたか、、、どこで、、、ストリーは満点やったで!。

でも、、、試験って、、、

なんで?その事件が起きたか?の方が問題に出るやろう?!

高校のアチーブは、東大100人前後合格する高校で、

10番の安定した「知識人」やった。

世界史も、、、私は5点しか取れなかったけれど

辞典位分厚い参考書全部覚えとったので、

〇×式のアチーブは100点やった。

周りの先生も、、、東大は合格すると,、、励ましとったでの、、、

兄貴は、私の所に良く質問に来た。

私が出来んかったら、、、にこにこして、、、安心したかのように

優しかった。

でも、、、私は、、、

「兄貴は国語の力で、、、東大は受からんのと違うカナ???」

いつも、兄貴の書くぶんを見ていて、、、不安やった。

何でもカンでも、、、箇条書きにするんやね、、、???

理科みたいな国語やった。

そして、、、東大受験!

遊びに来ていた、両国高校の兄の友人は

どんどん、、、東大合格した。

やっぱし、、、自己採点でも、、、東大の国語だけは50点無かった!・

「桜、、、花散る、、、」

 

何で、、、ここ、、、東大受験の話を出したか!!!

落ちた時の両親の言葉が、、、兄貴の心の,、、今までの信念から

空中に糸の切れた風船か、、、タンポポの綿毛なのか、、、

心の迷子にしてしもうたんよ、、、。

私はね、、、妹やったけれど、、、言うてしもうたんよ。

「お兄ちゃん、日本はね、戦後を立てなおさないと先が見えんやろう?」

我が家のように、爺ちゃんは宮内庁に勤めていたと言っても

柔道5段で、、、きっと、、、武幹やったんやで?!

お父さんは、、、私立の慈恵医会いだいでしょう?

これも又、、、臨床医としてのエースやけど、、、

研究者を育てるのが「東大やろう???」

やっぱり、、、臨床から研究の分野の東大に入るんなら

親も、東大向きの研究者とか、、、どこかの官僚とか、、、

政治家の偉い上の方の人とか、、、家風の教えそのものが、、、家と違うんや!

知識や、試験の点数や、物理数学科学のような、、、

出来る、、、出来ない、、のほかに

「東大に行かないと、、、ゲットできない何かを、合格する学生は

初めに、、、それがあるんと違うカナ?」

「国語の力が、、、決め手になるんと違うカナ?」

親の代から、、、研究者と、、、我が家のように

臨床家のエース、、、実践のエースで、、、戦地を乗り切ってきても、、、

教育の、大きな領土みたいなものの、、、なわばりみたいな、、、

考え方そのものが、、、我が家は試験で点数良ければ打つ破れると信じて

武力に似たような。力で突破しようとする勉強に偏っとるんや!

東大は、、、心が小さい時から、、、金持ちじゃないと

考えの方向そのものが、、、間違った方向へ武器みたいに考えが成るよね!。

国語や、、、来年浪人して、、、もし勝てるとしたら、、、

戸者間のあらゆる本を、片っ端から読んで

能力以外の分類や総合的な、ひらめき養わないと、、、

問題集南畝やっても、、、東大は、考え方のドンを養う大學みたいやで???」

兄貴が、、東大にあこがれながらも

臨床医の名門の日大に進学しました。

「生きてゆく自分から、、、社会に選ばれないと、、、生きて行けない。」

役に立つものを身に付けないと、、、

日進月歩の威嚇の世界では、毎日受験や、、、技術を身に付ける!」

兄貴は、人生を、手ごたえのある自の満足度に絞り込む方向に

人間性そのものを、絞り込み始めました。

                つづく