花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

個人レベルの、、、医療崩壊を防げるのか???、

2021-04-22 16:01:52 | Weblog

corona感染の世界流行の中で

ウイルスの動きに対して、、、、正しく怖がるべき、、、と

このサイトは、疎遠になっている兄弟親戚、、、孫子に伝えれたらと、、、

極めて個人的な気持ちで、、、茶の間レベルで、、、

生き残りに向かって、、、76歳の、婆ちゃんなりに、、、

ムダなく、緻密に、過不足なく、、、私なりの我が家の「水際対策」をとっている。

 

神経質なわりに、、、男性特有な大雑把な所と

不必要な動きをしないという習性に近い、、、

私こと喜寿目前の婆ちゃん

 

主人が2回目のワクチンを、無事に終えて

     15日以上たったから、

私は、主人と一緒に

      [笑点]を観るときなど、、、

           マスクをするようになった。

 

主人は、慎重な人ではあるが、

           ワクチンをしているという

                  見えない油断が出ないとも限らない。

 

幸いの事に、結婚当初から、

                    主人も、私も

   次男と次女、、組み合わせで

親からは、、、、

   いずれ出てゆく目下家族として

          長男や、末っ子の扱いとは、、、一味違っていた。

 

幼いころから、、、

         「借り物でない生きて行ける力」が無いと、、

                         この世の中に、必要とされるしか、、、

愛は向こうから来ないという順番だった。

 

「居場所は、、、部屋住みだ!」と

     無意識の天の子。

たぶん、、、主人も同じだったのかもしれない。

私たちは、、、

 

   天が与えた

  「男と、、女の、、、磁石の様な出会いは無かった」

 

           

       

 

 

    結婚したくなる男女の引かれあう気持ちを

    経験することなく、、、、

    女性としては

    ケーキの、カステラだけを見てるような

    生きぬくための結婚だったような

     未熟なかけにも届かない、成り行きでしたね~~~ 

     

           父の残した、、患者さんの

 

               

    行き場のない、不安と喪失感を、、、どうすればよいか??

     地域のスケールであるが

      医療崩壊を、解決しなければ、、、ならない

       母の希望もあり

     この結婚は、前に進むしかなかった。

 昭和40年代は、まだまだ、、、

   終戦から立ち上がり始めていた貧乏な人が居た。

 

     未来のご主人様も、、、

    恋だの,、愛は邪魔だった

 

   私と会ったときは、、、おなかがすいて

      天井の節穴を数えて、、、食べないで、、、寝た。

      戦争の後の日本全土貧困時代に、

      あっちでも、こっちでも、、一家心中が有った。

      ある日、、、向こうが丘遊園地に家族で出かけ、、、

    いつになく、、御馳走が一杯なのに

      母は笑っていない、、、

      とりこし苦労かもしれないが、、、

 

       「母さん、、、僕は医者に成って、必ず楽にさせるから、、、と」

     何かを感じて、お母さんに言ったそうです。

 

     仕送りが止まったとき、、、その時のことが甦り、、、

    博士論文が出来たら、、、東京に帰るつも理だったらしい。

     本当に貧乏を味わった時だったのだろう、、、

      免許が有れば、、何とかなるが、、、免許がない!、

      医学部卒業していても、、、何もできない、、、!

 

 

奨学金だけが頼りで、、、大学院に進学していた。

昭和44年、、、秋、、、奨学金の4万円で

      結婚に踏み切ったのだから、、、

        すべては、未来の支払いで出来る条件を選んだのだろう。

   病気のように、、、真っ白な、、、青白い、、痩せた

    

 

     孤独の絶頂を感じる年齢に突入していた。

   目の前に30歳が来た!!

、、孤独と不安の中で、、、

手も足も出ない社会情勢の中で

   出口の光を探して、模索していた。

   故郷の東京に、

     外科医を探している私の母と出逢った。

  恩師の教授は東大卒の方だっただけに

   もうすぐ、、、東京に帰ってゆく。

  手も足も出ない、、、

   博士論文の研究もしなくてはならない、、、

故郷の両親は老いてくる、、、

、、、結局、、、

   母と医局の先輩と、主人の、偶然の出会いが

  主人には、渡りに小舟に見えてしまった時期だった。

母にとっても、、、

    これから外科医になりたいという青年は

  目下の条件が、

    サポートを必要としていた状態だっただけに

勤務の私を辞めさせてでも、、、

  父の早逝したための

   医療崩壊寸前の、、、我が家の開業医院を継続して

      外科、内科の看板は維持したかったのだろうう。、

双方のニーズの為に、、、

未来の薬局長候補が、、、失業状態で、

北海道に、

1人の医師を迎えるために、初対面で付き合いも無いまま

結婚に踏み切った。

  過労死した54歳の医師、、、

     父の残した患者さんたちに

     地域的な規模とは言え

       医療崩壊の不安を、感じさせたことの焦りが

娘が手段になるのなら、、、

    1人の苦学生をサポートしながら

   双方のニーズに一致した時期に

地域医療を復活させたいと、、、

母は、、、「政治をした???かも知れなかった。」

さすが、東京都の先生をしていただけあって

   学芸会の役割を与えるような、、、気楽さで

     北海道の若い外科医を迎えに行く結婚を推奨した。

実家は、、、内科医と称している兄が、、、

         汗だくで維持していた。

「若先生は、、、優しいけど、、、

大先生みたいに、、、頼りにならんのです、、」

患者さんは、待合室で、

  「大先生、、、大先生、、、」と言って、、、

内科医一年生の兄を、、、意気消沈させた時期でもあった。

 

医療崩壊は、、、大規模にしろ、、、小規模にしろ、、、

   家族規模の悪あがきでは、、、

      解決できないという

社会性のある、、、制度と,、、税金と、保険制度の間に

   医局制度と言う、、、鉄壁が、、、開業医の前に在った。

 

地域300メートルの、、、家族丸ごとの患者さんたちを

医療の上で安心して、もう一度、、、

     我が家を頼っていただけたらと

家族全体が願い、努力をはじめていた。

父に比べて未熟な面は、

   父の友人の先生の指導を受けた。

設備も、医療機械も、

    オルガン代のパソコン端末と銀行をつなぎ

      計ルはプロに任せた。

建物も、母の住む母屋を残して

     、地下のついた鉄筋に大改造して

父の時代の看護師さんから、

   兄の時代の看護師さんに入れ替わった。

 

主人が北海道から戻ってくることを想定して

      壱階部分を外科の診療所にするために

一階は空洞のテナントのように、、、

         何もないスペースが異様だった。

1人の医師を我が家に迎えるとなると、、、

兄が院長で、、、主人が副院長になるはずだった。

外科医の居る、、、外科の強い内科は、

理想的なコンビであると思った。

 

兄は、、新卒に近い一年目の内科医だけに

外から手伝ってくれる父の友人や、

医師会の先生や、パートに来てくれている医師の必要な空間を作った。

主人が故郷の東京に帰ってきたときには、

目下の240坪の医院を

銀行の勧める案に乗って、

道路に面した古い世代交代の間際の土地を買い取って

診療部分を拡げて、医師の確保できる方向へと動き始めていた。

「淡交会」とかいう、、、お茶会の様な名前の

「病院設立メンバーの会」などを打ち上げ

主人と私に名刺をくれた。

   30歳代の前半のうちに、、、東京に帰ってきてくださいと

母も兄も主人と打ち解け合っていた。

 

二番目の兄は、

スイスの日赤に勤務していたのを帰国して、

兄の医院の薬局長として格安月給で、実家を助けようとした。

用意万端、、、主人の博士号取得の後の、

  東京に帰ってくる体制は整えられながら、、、

弟は千葉大学医学部を卒業して外科の医局に居た。

、、、時代は進んで行った。

「外科での開業は、、

   もう、、、無理かもしれないという、、、時代に入った。」

弟も、千葉大と言う、天下国家のスケールの大きい医療を見て

千葉大の大先輩の市川先生と出逢い、、、

    国立がんセンターのスタッフとして勤務に入った。

     

もう、、、地域医療の開業には戻ってこないことが、私にも理解できた。

 

スイスから、帰国して、

  小さな開業医の薬局の基本的なシステムを敷くと

医師の集まってこない個人開業医の薬局を出て行った、

薬剤師と結婚して、

   地域に根差した薬局を立ち上げ独立していった。

自分で薬局を開業して、、、今日に至っている。

 

時代の変遷、、、日進月歩の医学の進歩は、、、

父の後の地域的医療崩壊は、

    我が家の手をすり抜けて

近くに大型地域病院が出来ることで解決した。

 

兄は、父の残した開業施設を売って、、、

       勤務医として出て行った。

旧い医療機械の片づけ、、、

     鉄筋コンクリートの地下付き3階の取り壊し、、、

相続したときの土地の値段が解らなかった時代だけに

95パーセントの税金がついたそうで、、、

職員には23人と何十年も居てくれた税理士さんには

職に就いている間に手腕を発揮した

「保養施設に近い貸家になれそうな別宅など」

退職金代わりに、切り離して、

職員が、、、パニックにならないように分配したそうです。

 

妹の私には,、、チョコレートの箱一個!!

      

弟には、、、開業中の空の金庫が送られてきたが

カギはかかっていなくて、、、中は空っぽで、、、

税務署さんだけが、、、分配金が有ったのではないかと、、、思ったとか?

病院に有った現金用の大型金庫は、弟の家では

   いい迷惑な、、、処分が大変だったとか、、、ぼやいていた。

結局、、、父の代から続いた開業医院は

手元には5000万円が残ったと、報告が有り

痴呆を発生した義姉はそのお金で、、、兄と

特別養護施設に入居。

兄はそこから現役の医師として、勤務中です。

 

周りからは、、風評被害のように、、、

家族は嫉妬され、、、虐めも人知れず根回しされる

光と影の世界は、、、

勤務医の妻と言う立場でも、、、同じである。

政治家は知能抜群で、知識人であるが、、、

専門家の医師の、、、生きるのに不器用な部分を

  理解してくれたら、

人生の終わりに、、、安住の場所の無い医師が減ると思うのですよね。

 

専門家は、、、専門分野に秀でていますが

専門分野以外は雇用して人にゆだねるので

多くの雇用している人たちの家族を養うという状態で

一見華やかな風評の中に居ますが、、、

息子を医師にしなければ、、、続かない会社と同様で

地域的な医療崩壊が起きてしまい。

小規模の人数ではあるが、、、医療崩壊の中で

閉院は、、、開業よりも、、、

    現金が必要になり

医師そのものの専門性も相続は出来ないし

施設も相続できないという、、、

尻切れトンボのエポックに、、家族は

「寒菊の、、、まとうは 己が光のみ、、、」

力を付けねばと、、、

頑張る人生で、、、私は、、、私、、、やるっきゃない!!!

 

あたかも、相続分が現金で分配されたかのような

送別会が、、、何十年も経ってから、、、開かれた。

招待状は何回も何回も、、、確認の分まで送って来た。

 

 

風評の中で、、、

現実は、職員の退職金や。建物の壊し代金

にっちもさっちもいかない、、

時代遅れの医療機械の処分

二重造影鉛の部屋など作った事もあり

業者に丸投げした様だッタ。、

閉院は、、、「医療をしている」という全財産のほかに、

借金が残るほど、閉院は大変だと思いました。

 

開業医の院長夫人は

天国から地獄への日常は、

短大家政のお嬢さんには無理だったのは

           解る気がした。

     痴呆と言う

     神様の贈り物によって、、、

      精神は幸福のまま、、、。

せめてもの救いだった。

 

   溺れる者をスクイに行っては自分も溺れる、、、

   全権放棄して、、、見守る日々は、、、苦しかった。

 

周りは大変、、、この一大事の時期に、、、

     痴呆出現。

 

兄は捨て身の、可決策に 大きな組織に全権譲渡した様だッた。

 

生前、母からもらったアルバム一冊の写真以外は

私の手元には残らなかった。

院長室に飾ってあった、、父が戦場の病院長の時の

   日赤の看護師さんらとの集団写真は、、、

    手元に残しておきたかった。

戦争時代の戦場近くの医療施設の写真は、、、

   歴史的に価値もあると思った。

でも、、時代は移り行くのだから、、、

          見送るしかなかった。

兄は、、、弟たちには全く知らせないうちに

            すべてをやってのけた。

       兄の長男のお嫁さんが女医さんだった事も

           姉弟の出番がないという成り行きになった。

       才媛だったのだろう、、、

   実家が、、、売られたのを知ったのは、、、

     かなりの年月が過ぎてからだった。

    弟も、、、相談を受けなかったと、、、落ち込んでいた。

 

売られてしまった実家を観に行くのは精神的に良くないと思い

私は、夢の中の実家に、、、しばしば里帰りをしていた。

弟が、、、「僕たちに相談してくれないなんて、、、」

落ち込んでいtので、、、

   弟は天下国家に貢献できた人生を歩んだので

    兄は、、、維持してゆくのに、、、

       足手まといにならないように

    自分の家族だけの問題として、、、

         解決したのだと思うよ、、と

閉院に至っては、、、マイナス財産しかないから、、、

    弟の荷物になるのを避けたのだと思うよ、、、

弟は、、自分の車に私を乗せて、、、

   最後に、、、実家を見に行こうと、、、私を誘った。

     寂しさは感じなかった、

       父と母の時代は過ぎたのだと感じたのかもしれない。

 

   瞬間的に、神様が私を「痴呆に導いてくれた?」

       違うって、、、!!、、、でも

      感情が動かなかった、、、。

 

   その後、兄夫婦は、大きな病院の関連施設の老人施設である所の

「サービス付き介護施設」に転居

「激動の閉院」に

精神がついて行かなかったのか、、、

脳がエンストしたのか??

痴呆になった夫人を避難させて、、、

     守ったけれど、、、

 

颯爽としていた医科大学に通っていた頃の

 

   独裁者も顔負けの、、、

妹の人生ごと振り回して

       配置しようとしていた、、、

アグレッシブな若さは

     父の残した本拠地が有ったからこその、、

政治だったのだろう。

一生懸命、、、若い頭で、、、家族の、、、 

兄が大切だと感じた「兄の流儀のプライド」を

一生懸命、、、守っていたんだね、、、。

   

ありがとう、、、男と女は、、考えてることや

    大切にしていることが違ったようだね、、、

   老後も、、、貧しくても、、一緒に行き来したかったよね、、、

 

元来は、、、神経質で、、、プライドが高すぎる地域の王者で

根っこは母から乳離れできない、、、

    

戦場の母にしがみ付いて命を守った育ちは

    

老人になっても、、、

「母の乳房から離れられなかった精神が有ったのでは??」

痴呆になった奥さんを、、、ほめそやしながら、、、

守り続ける兄は

戦場で、

母と生き残った母を守ろうとする、、、本能が

 

逃げの経営をしたのではなかろうか?

   

 

一般人の人生を過ごして、、、老境に入って、穏やかに家で過ごしている

舅の、昭和の晩年の様子です。

一方、、芸術家堅気の老人と言うのは

   同じ日本の、、終戦体験をしたとは

  考えられない、、、

「自己中な、、、楽天家である様な

              ゆとりを感じた。」

医師の人生と、コントラストをはっきりと感じる

 

主人のお父様という方の、

日常に、すれ違ったときの記憶を

  述べてみます、、、、

使命感が自分自身の中にある職業の人は

     享ける感じが、、、「池」のようです。

その池に、、、私と言う、、、蛙飛び込む、、、水の音を

  激走の時代に、、、池の波紋だけで、、

、静かな人生を感じました。

1人の老人との、、、傍観者の記録です。

旧い時代から、代々続く、

産婦人科の開業医の長男だったようですが

明治生まれの、その時代には、、、

    映画を作るの、、、絵を描くのだとか

         芸術家としての演劇を志すのは、、、

河原古事記だと、、、とは私は、、、

           どうしても思えないから

  いつかは未来の宇宙時代に

     古事記として残る人たちかもしれません。

ともかく、、、乞食扱いに甘んじ乍ら

   ザンギリ頭の文化人には

  クラシックの音楽の楽譜も日本に無いという時代ですからね。

家を継ぐべき長男が、、母の姓に戻って、

自由気ままな生き方を選んで行った。

同じような時代に、兄字様な場所から

萩原朔太郎は、、、詩人として、世に認められた。

     お兄さんという方のサポートは、

           並々ならぬ理解を示し

凛として、萩原朔太郎のすべてを支えたと

   何かの作品で読んだ記憶がある。

    

舅の場合は、、、才能が、その時代としては目立っていても

   時代の変化についてゆくという

     柔軟性に欠けていたのかもしれません。

Yafoo-検索にかけても

     2~3個の作品の制作者として出てくるだけで

       晩年設立した会社も、うやむやになっているが

結婚した当時は、舅が、北海道まで遊びに来て

     10日以上は宿箔すると言う、、、風邪任せの人物で

主人は、その間、早朝出勤の当直とか、、、

      せっかく来た親父殿の相手をする暇もなく

         幼児2人抱えて、、、私が毎日

    舅が行きたいという場所まで、車でお運びして、

      帰りたくなったら、電話を入れてもらって、、、

         お迎えに行くという、、、

     嫁の役割としての最低の事は、、、育児の合間に出来たつもりです。

  しかし、、、かなり、、、テンポラリーな性格で

     花火を見る約束をして、その夕方、

        アパートの、開花の奥さん家族に誘われたのを

    舅が来ていて、、、花火に行く約束を、先にしてしまっているからと

    後で、、会場で会いましょうと言う事になっていた。

ところが、、、その日は、、、夜の10時ごろのお帰りでした。

私は、、、花火に行かないで、、、待ちぼうけでした。

   お酒を飲んで、ご機嫌でしたので、、、

        そのことには触れませんでした。

翌日は「昨日の花火は楽しかった、、偶然知り合いに合ってね、、、

      一緒に、飲みながら、花火を見たよ、、、」

私との家族の約束は、すっかり忘れていて

     約束そのものも忘れている様だッタ。

翌日は、主人は心配になったのか

     北大病院に、全身検査に連れてゆきました。

    脳の異常も無し、CT画像も正常!

勢いがついたのか、、「眼医者さんにも連れて行ってくれ、、、!」

主人は、その日は勤務で行けないので、、、私がついてゆきました。

「親友に近い眼医者さんが開業されていて

    主人がそこなら、、、多少のわがままは許してもらえるから、、、と。」

ともかく、、、

裏書に「父です。よろしく」と

    走り書きした名刺を

       北大に勤務中の医師の息子が持たしてくれたので

  北海道と言う、、、お客さんの立場なのですが

眼医者さんに行って、、、

  その態度の大きいこと、、、大きいこと、、、

良く流行っている評判の眼医者さんだけに

  待合室には大勢の患者さんが待っていました。

    お子さんがたも、たったㇼ座ったりしながら、、、待っていました。

「お爺ちゃんは、、、待ちたくない、、、」とおっしゃるので、

 本意ではなかったのですが、、、

   主人の名刺も、渡して受付を済ませました。

  お爺ちゃんは、、、

    ちょっとの時間でも、

      待つのが苦手のようでした

 「受付には、息子の名刺を渡してくれたか?」

   「ハイ、、、順番が来たら、お呼びしますと言ってくれましたから、、」

私は、雑誌に目を通しながら、、

   そうとう待つことになると

     覚悟を決めて、ゆっくりと腰を落ち着けました。

お爺ちゃんは、、、たったㇼ座ったりしながら、、、

   北海道まで来た貴重な時間を、、、

     待合室で過ごすの不本意と言わんばかりに

立ったㇼ座ったり、、、

   「病院のせいではなくて、、、

ここは、、腕が良い先生なので、、、

  患者さんが多いせいですから

      少し落ち着いて,、、居眠りでもしていてください、、」

「起こしますから、、、」

そういって、、、なだめて、、、診療を受けてもらうのは

   大変なお爺ちゃんでした。

  たぶん、、明治生まれのお爺ちゃんの父上も

     そのまた上の父上も、、、

       そのまた上の父上も、、、

   産婦人科を、代々営んできた旧家らしいので

  舅は「故郷の小中学校の同級生は皆、親父の産科で生まれたから

      地域一帯が兄弟姉妹家族みたいなもんだね、、、」

  この地域で高校まで卒業しているのだから

    思うようにならないことの方が、、、少なかったに違いない。

   世の中には、、、本人が自覚しなくても

    周りが、、、「あの人は別格だから、、思うようにしてあげて、、、」

そういう言葉で、、、障害物は取りのどかれたのかもしてません。

之って、、、本人にとって、、、幸せな事なのでしょううか?

自分以上の力以上に、、、物事がスムースに運んでゆく人生って

本人が居るようで、、実は背後の、

産婦人科の看板が生きているのとは違うのだろうか?

お爺ちゃんが帰った後、、、

私は、本人が意図しなくても、、進んでゆく社会の怖さを感じました。

その後も、、、北海道にひょこんといらっしゃいましたが、

60歳を超していたせいか、、、

札幌には仕事仲間も、顧問とか、、、特別職の為

  舅は、訪ねようとはせずに

    「中島公園に行こう、、、連れて行ってくれ、、、」

 これは安全地帯なので、、、ご自由に遊んでいただけると思い

子供を公園に連れて行って後は、ベンチで居眠りこいているように

良い所に行きたがってくれたと、、、車で、公園までお連れしました。

ベンチでも見つけて,、井眠っているから、、、

帰る時には、、、起こしていただければ、、、と

言おうかな????!と思う矢先に、、、

「僕が歩いて行く後に少し離れてついてきてくれ、、、」

とおっしゃるのです。

   え~~~放任できないの???と思いながらも、、

  数日で、帰ってゆく人だから、、、と

「ハイ、、、そうします。」

拾い、、、中島公園んを、少し離れて、、、歩きました。

お元気な事、、、お元気な事、、、

当時は、売店もあり、、、現代もあるのかしらね、、、売店は???

あれこれ買われては、、、

「おい!、、、これ持ってくれませんかね、、?」

紙袋は、、、中島公園で出会ういろいろな落葉まで集まって

     結構な、、、お散歩コース、、、となりました。」

外での飲食は、、、

   お友達とでないと、、、

       行く気にならないご様子でしたので

そのまま家に引き返しました。

  翌日は、、、Sさんという、仕事仲間が居るので

    元気かどうか、、、?会いに行きたいというので、

 「そんなに、、、偉くなられた人なら、、、

      アポイントとらないと、、、

   札幌では、、、偉くなられて人ほど、、、

            アポイントとらないと。。。

    仮に、その時間が、、空いていたも、、、

    都会は飛び込みの仕事を受けるので

    『今日は予定があるからと、、、断られるケースが多いですよ、、』

私は、老婆心ながら、、、目上の舅にアドバイスの様な事をしてしまいました。

「君が心配することは要らないんだよ。、、、竹馬の友だから、、、

   僕の場合は別格でね!!、、、アポイントとる方が、、水臭いのだよ!」

あまり自信が有りそうにおっしゃるので、、、

   「そうですか???、、、札幌は見に東京ですから、、、下で待っています。」

車で、、三共ビルの隣のビルまでお送りして、、、

   「ここからは、、1人が良い」とおっしゃるので

  「 近くの駐車場に入れて、、、待っていますから」

 私は、、、いくら、、、竹馬の友でも、、

  生き残りの激しい戦いのある札幌で

    それなりの地位を得た人が、、、

      「アポイントとらない人」と会食して、、、

        飛び込みの仕事を逃すはずはないと思っていたせいもあり

  「待っているつもりでした。」

   「君が居ない方が、、気が楽だから、、

     家に帰っていてくれればいいから!」

   絶対に自信あり気におっしゃるので

  私は、自宅に帰りました。

30分で、自宅に着き、、、やれやれ、、、頑固な年代だ事!!

つぶやいて、、食堂に入ったとたん、、、

  電話です、、、!!!

「おい、、、迎えに来てくれないか?!。。。。」

理由は聞かずに、、

「今すぐこちらを出発しますから、、、30分は建物の中に居てください!」

「30分経ったら、、、車を降りたビルの前に立っていてください。」

私は、、、「やっぱり、、ここは大都会の札幌なんだ!」

、社会の常識が再確認できたことは、マイナスにはなりませんでした。

お爺ちゃんのおかげで、、、

   時代はそんなに変わっていないという事がわかりました。

私の母は、、、父が院長をしている病院の前の公衆電話から

  「病院前に居るんだけど、、、」と電話したとき

  「今は仕事中で、今日は会えないから、帰りなさい、」と言われたと、、

生涯の間に、、、10回は、、ぼやく母の言葉を聴いていましたから、、、

立場ある人は、、、時間の奴隷なのだと、、、その時から認識していました。

こうしたことを、、、通して、、、何が言いたいのかと、、、

一見すると、、、時代錯誤の舅のうっぷんに思えるかな?

   時間の奴隷と、、、全ての時間が我が物の人生の違い、、、!、

            

そして、、、北欧のエリート電子工学士たちは

チップを入れた手のひらから、

距離に如何なく、、、直接交流するという時代に

   人間は,どのようにコミュニケ―ションのやり方が変化して

   感染症も、coronaを含め、、、

3蜜の中で、、、精神交流の時代が来ると、、、

   どのような大学の学部が無くなり、、、

     どのような仕事が失業してゆくか、、、

        危機感で、、、食事系統の商売が世の中に苔平のように

     密集していった時には

        万一、、異次元のとり残された村落では

        立体多面体の社会を、、、

   米、野菜作りで、、乗り切れるのか、、、

     遺伝子操作で、、、アスリートが能力をつくられる日が来たら

      ドーピングは遺伝子にまで及び、、、

     オリンピックの選手の選抜は

        検査方法はどうなるんpだろうね、、、

          日本人の、、、オレオレ万歳!

          女性差別は、、、肝心の情報は置き去られて

       女性抜きの子だくさんになれば、、、

             男性同士や、女性同士の家庭から、、、

          異次元の日本の能力が生まれるかもしれませんね。

       疲れた、、、本当に、、

            

         我儘なお爺ちゃんが、、、時代を揺るがすことが無いので

        安心な安らぎの中で、、、

        思いやりさえあれば、、、明治の男性の方が

        時代錯誤は感じないかもしれませんね。

 

       76才、、、どう生きても、、、80歳代で、、、この世とお別れ

 

        私は、、、とり残された感が来る前に、、、旅立てる、

       何が幸せで、、、何が不幸なのか???

       権力と、、、電子工学と、、、遺伝子操作と、、、放射線と

       そして、、、女史は何処に行く、、、

 

       絶対の力に思えた出産能力が、、、遺伝子操作で

       冷凍保存卵子と精子で、、、独身の男性のkodakusan

         ありえないような未来が、、、

        coronaに勝てる日の、、、イメージとなって怖いよね!

        そこまで戦うか‼!!、、、人間よ!!!

        それとも、、、遊び心のゲーム基地の、、、行き着く先カナ?

    coronaで閉店の激動の嵐の中で

       我が家の、、、時代の波の中で

               東京は個人開業の時代を飲み込んでゆくのか??

     大学教育と、人生哲学と、、、電子工学と、ITとスマホ

       時間のspeedのクレパスに沈んでいった

         一開業医の夫婦は、、、どこに流れ着いて

         半可通の世間の波に抱えきれなお労働を背負って、、、

           医師の先生方は、、、大丈夫なのだろうか?

      医療崩壊は、、、半可通な専門分野の知識が

        SNSでツーとして、、、

        パクツイが、、、さらに、、、半可通なリブを受け取り

      医師虐めの様な、、、労働の連続を、救うという

        個人個人の、、、医師への思いやりが

          かき消されて、、、

          医師を無限の労働者にしてしまい、、

        ヘビが自分のしっぽから、、、食べ始めて

         ヘビが居なくなりましたという

           coronaの終結にならないように!!

         ヘビは、、病院のマークですよ!!

         3蜜を守ることは、、、

           ヘビが、、腹減っても、、、自分のしっぽを食べないという

          自分自身への、、思いやりですよ!!

          ゴールデンウイークは、、、3蜜の徹して

            ヘビを生き返らせて、、、

            エデンの園で、、、リンゴを食べて

             酒も、恋も、、、この世のイブとアダムの

            幸せが、、、きっと、、、又来ることを

             信じようよ、、、

            医者の先生だって、、、人間だから、、、

           働き続けることから、、、

            皆の3蜜の実行が、、その、、、重労働から

          救って差し上げられるのだから、、、!!

           私は、、、3蜜は守ります!!

            小孫には、、、カンズメを贈って、、、

            家に居てもらいます!

          正念場だと、、、思います!!!

 

  

  

 

 

 

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