枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

寒中の卵と水

2011年01月16日 | Weblog

 井戸水は暖かく美味しい。その水を寒水と言い、枇杷葉茶を沸かすのにもらって帰る。寒水は味がまろやかでやさしい咽喉越し。枇杷葉茶を煎じると寒露です。カルキの臭いもないし、体の芯を冷やすこともない。Aさん家で分けていただくが、1年中を通じて、今の時期が本当に美味しいのです。珈琲や紅茶もこれで淹れます。極上の味がします。

 最近は、喫茶店へ行かない。珈琲の味も悪いし、高いのだ。我が家で思うように淹れて飲むのが一番です。そこで支払うお金があったら、サンタさんに頼んだ方が得です。郵送料を払ったところで、何十回も飲めます。昨日は、友人が支払いをしてくれたが、卒倒しそうでした。私は、決してケチではありません。倹約と節約なだけです。

 少ない給料の中から、本を買いたい。以前ほど手当たり次第、ということはなくなりましたが、図書館で借りるよりも、何度も読みたい本は買う。繰り返して読んでも、飽きない本は買うのだ。昨年、毎日新聞の日曜版にあった『誘拐』。夜毎読み返している。その度に心が震える。言葉に言い表わせない想いが、轍のように広がっていく。

 あの事件があってから、早数十年が経った。日本の現状は、あの時のままではないが、更に厳しい現実になっている。殺伐とした世の中に、人間の命の重さの欠片もない。それよりももっと酷い事件が後を絶たない。ほんとうに些細なことで、他人の命を絶つ。或いは、親が子を、子が親を殺める。生きていくことの方が、様々な葛藤があり苦しいとはいえ。

 けれども、生かされていることを思ってほしい。自分独りではないことを考えてみて。自ら命を絶つ。と言うが、これは精神的に追い詰め、言葉によっての殺人である。弱いのでも、負けたのでもない。神さまが残酷な仕打ちにされただけ。耐えられるだけの命が消えただけだ。眼には見えないけれど、この世には不思議なこともある。

 母が黄泉の国に逝ってから、その存在を感じていたが、先日の墓参りで、ちょっと出没回数を減らした。雪が降れば寒かろう、と想い、雨が降れば冷たかろう、と案じる。実体はないけれども、天界と、地上と、心の中に居るそうだ。私には視えるし感じるから、どうということもない。毎朝、枇杷葉茶を湯のみに注ぎながら話しかけています。

 サンタさんが、枇杷の花芽茶を甚くお気に入りです。枇杷葉茶よりも甘いそうです。家中で飲んでくださっているとか。サンタさんのご家族の皆さんの分です。一旦、冷凍庫に入れた花芽茶は、お茶で飲まれる以外では、そのままがいいですよ。何処か他に送られるようでしたら、ご連絡くだされば幸いです。我が家には、部屋で乾燥中の物がありますから。

 こちらでは花芽茶はあまり好まれません。枇杷葉だけの方がさっぱりしていいようです。或いは、枇杷酒の方がいいようで、お茶はめんどくさい。と敬遠されます。自分で作るよりは、買うのがいいようで、農薬たっぷりのお茶を、美味しいと飲まれています。個々の生き方であり、考えでもあるのですから、無闇には止められません。

 いつの間にか我が家に来ていたつむちゃん。冬の間は、冬眠中なの?居場所は、鉢の外から中側に移動しています。

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