風邪で熱に浮かされた、と言えば聞こえはいいが、草木も凍てつく丑三つ時。先月亡くなった方が夢枕に立ち、寒いので傍に行かせてくれ。と訴え来る。正気の頭であった故、恐怖の度合いは半端なものではなかった。この方は、亡くなる前にも視えていたのだが、成仏されていないのか?
私は、個人と親しかった訳でも、特別にしてもらった覚えもない。それなのに私の所に迷って来られた、ということは、供養をしてほしい。ということではないか。形式も、お金も必要ではなく、心から手を合わせてくれれば、成仏できるようにも思える。母が、居ない今となっては、決して人事ではない。
この方も、身内の一人でも、心からの供養をしてあげれば、迷うことはないだろうに。私には荷が重過ぎて、どうにもならない。お住まいだった方角に向かって、手を合わせてあげようか。とは思うのだが。どうか魂が安らかになって、そちらでの暮しに慣れていただきたい。せめて、生前のお姿を心に留めておきましょう。
明日は、Sさんの月命日。この日は、できる限り墓参りに出かける。明日は、早出の勤務なので、仕事が終り次第、行く予定です。けして無理はしないように、時間もお供えも決めてはいません。その時の家にある物だったり、花であったりします。お墓の掃除と、水を換え、花を活けたり、お供えのお菓子や果物を置いて、いろいろ話しをします。
これは私が、自分でしようと決めたこと。毎月当たり前のように行くけれども、命の尊さを思わないではいられない。Sさんは自分の病名を知っていた。告知を受け入れての、覚悟の治療であったらしい。誰にも別れの言葉も言わせないで逝った。私にできることは、遭いに行くということだけですが、笑顔で迎えてくれるから。
母が亡くなってからは、月命日が増えました。私が、自分に納得できるまでは、続けて行こうと思うのです。Sさんには、私の窮地をいつも援けてもらいました。心が粉々に砕けてしまっていた時、温かな想いがうれしかった。それでも、自分の足で歩くことを教えてくれた。今日の私が存在するのは、Sさんだけではないが、比率は大きい。
枇杷葉を、もっと早くに知っていれば、どんなことをしても治してあげれたのに。後悔が胸を引き裂くようで、愕然としてしまった。私の、知っている全ての人に、病で亡くなってなどほしくない。枇杷葉の手当てで、必ず治るのです。相手を想うと、吾と我が身を投げ出しても、援けてあげたくなるのです。
出窓の所に置いている鉢物。寒さにじっと耐え、ひたすら春を待っている。心持暖かくなると、蕾が勢い開いてくるよ。
りささん。アレルギーにはドクダミ茶を、しっかり飲んでくださいね。花芽茶もなくなり次第、お送り致します。今年は、某作家さんの花粉症は、いかがでしょうかね?この研究で、ノーベル賞が手中にくるだろうか?!