枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

七草の怪・・・

2011年01月08日 | Weblog
 今年は、パソコンの体調が悪いのか、いろいろ支障をきたしている。昨日は、どうあっても作動せず、今も、ここまでくるのに1時間半が経過した。じっと待っていたのだが、動かないので始めからやり直した。それに時間を消費したのだ。無論のこと、昨日はどこのブログにもいけなかった。不可解この上ない。原因不明です。

 鬱症状というのも、以前からあった。陰鬱、憂鬱。の言葉がある。状態や症状を分析するために、医学的に分けたのか。人間でも動物でも、植物においても、ストレスを異様に強制されれば、抑圧された気分が爆発する時がある。私には、自然の法則に従った月の満ち欠けによる、バイオリズムだと思える。

 医学的にも、科学的にも何等根拠はない。だが、月齢を観ていると、とても興味深いことがある。それは、気分の昂ぶりや、落ち込みの回数が、同じサイクルで周っているように感じるのだ。単なる思い込みかもしれないが、そういった鬱状態の時には、何をする気にもならずで、だらだらしているのだ。

 反面、これではいけないとか、こんなことでどうするんだ。という漠然とした想いはある。しかし、砂のように崩れて流れる。この繰り返しである。この状態に居る時には愛猫とも口も利かぬ。無論のこと、出かける気力もない。庭をぼんやりと眺めているだけ。雨なら、本を広げたままだ。

 極めつけは、食事が欲しくない。朝から、珈琲を飲むか、枇杷葉茶を飲んでいる。人と会うのが極端に嫌で、けんもほろろに追い返す。先ず玄関を開けない。普段は、見過ごせる汚れが、苛立ってに気になり、徹底的に掃除を始める。他人から見れば異様な行動も、月のサイクルが変われば、突然に快復する。

 この症状に、最も好まれないのは、さもわかった顔をされること。寛大なようで、底意地の悪い視線を感じたり、心が反りあうことです。自分で思うように行動でき、寄り添っていてくれればいいのです。かと言って、視野に入ってこられるのは疎ましい。精神を病むということは、特別なことからではありません。

 七草の、品名を思い出してもらおうと、せり・なずな・はこべ・すずな、ほとけのざ。と言いながら、後の2つが出てこない。と、話しかけていったら、2回ほど繰り返えすと、ごぎょう・すずしろ。と、私の忘れていた名前を言われました。人間の記憶にも様々な要因がありますが、若い頃に得意とすることには、素早く反応される。

 特別にこうでなければならない。という生き方は、普通の生活にはありません。自分が一番人間らしかった時こそ、思い出の中から消せないのです。とてもよく覚えています。夢を観るのも、そういった願望や、そうありたい想いが、重なってしまうのかもしれません。どんな人にも、より人間らしく生きる権利があります。

 私にできることは、多くはありませんが、不快でない生活と、心がゆったりできる空間の演出をしていきたい。そのためにも、隅々まで綺麗に掃除をし、居心地の良さを提供したいです。研修にも積極的に参加して、知っていても、広く活用できる私でありたい。何を知るのも勉強です。

 昨年の中旬に移動した、枇杷葉の鉢。薔薇を剪定したら、場所が開いてしまった。枇杷苗も、種類の違う鉢を5本移動した。大きくなったら、夏は涼しく、冬には暖かい?これだけが育てば、皆さんに送る分量は、確実に採れます。
コメント
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