大阪市内の西を南北にはしる四ツ橋筋から、東へ入ったところに「筋違橋(すじかいばし)」があり、
その名の通り、昔は西横堀川にいびつな格好で橋がかかっていた。
そのたもとに鮨の有名店が長くあることから、洒落て「寿司買い橋」などと呼ばれていた。
ところがである・・・
な、な、ないのだ・・・
この角に、長らく大阪人が親しんできたはずの、大阪寿司の超老舗があったはずなのだが…。
過去素材から引っ張り出すが、ここには「小鯛雀鮨 すし萬本店」があった。
それが、どうみてもあれへん・・・!
明治期の商家造りで、もうこんな家、二度と建たないと思っていたが、
これをきれいさっぱりつぶされ、さら地にされるとは・・・いや、まいった。 ブン屋も騒がなかったのか?
何があったのだろうか。 犬山の明治村へでも行ったか? ネット探すも判らず、誰か知らないか?
ここは全部とは言わぬが、一部の寿司飯を今だに薪のおくどさんで炊いていた。
長年の煤(すす)でいぶされた厨房を記憶する。
本丸ともいえる基幹店を手放すとはどういうことなのか。 会社の屋台骨の方は大丈夫なのか。
それにしても、現在、大阪人は自ら大阪寿司を見限ろうとしているのが非常に気になる。
寿司屋は江戸前仕事の真似ごとばかりして、大阪寿司なんて眼中にない。
あちらさんは文化文政の頃、たかだか二百年の歴史しかない新参者よぉ。
その前は、江戸も関西流の押し寿司・箱寿司の歴史が長く続いたのである。
上は「すし萬」の小鯛雀鮨。下はのちに考案された、阿奈古鮨。
さば寿司を大阪寿司と認識する向きもあろうが、鯖なんてものは昔はいくらでも獲れたものであり、
祇園祭や天神祭の際に、鯖の押し寿司を家々でこしらえたというから。ちょっとしたハレの寿司だった。
同じ鯖使っても、バッテラとなるとグッとくだけて庶民的。あれは酢をした薄い鯖の身をヘギのように、
めしに張っ付けて行く、いわば鯖のジグソーパズル。寄せハムみたいなもんだからま、安価だった。
やはり花は桜、魚は鯛! 上品な小鯛の押し寿司となると、特別なご馳走であった。
大阪寿司は半日ほど時間がたってから食べると、馴れ味となって一層うま味が増す。
よって、その場ですぐ作れ、食べて美味い江戸前の方が、対面の商売としてはやりやすい。
大阪寿司は保存も考えて甘めにできているので、当然、酒というより、お茶に合う。
江戸前だってお茶で寿司というものの、あれだけいろんな魚があれば、当然「酒」となってしまう。
客単価は上がる。店は大いに助かる。
大阪寿司は厨房で作り、持ち帰るもの。江戸前の職人は客前に立ち、しゃべり7分なんて人もいる。
キリリとねじり鉢巻きなんか締めて、つけ場に立つ姿はいきとかいなせと言われる。
そこへいくと、大阪寿司の職人は地味。箱すしの箱を回転させ「コ~ン!」と鳴らすのなんか、
なかなかいいもんだが、キレのある江戸前職人の方がインパクトがある。
しかし、うちの祖父がかつて大阪寿司の職人をしていたから言うんぢゃないが、
大阪寿司を忘れていいわけはない。
いつまでも箱寿司の「吉野寿司」(すしの字がちがう)、雀鮨の「すし萬」、ちらしの「たこ竹」だけでは
いずれなくなってしまうと思われる。 それでいいのか。
東京銀座と同じレベルが大阪で食べられる…なんて、手放しで喜んでばかりいていいのか。
我こそはという職人よ出でよ。
大阪寿司の技術の継承が急務である。 まずはそこをクリアし、
その後、大阪寿司と江戸前寿司のいいとこ取りで商売すればいいぢゃないか。
今は技術を受け継ぎ、自分が引き継いで正しい仕事を伝えて、
未来の大阪に大阪寿司の花を咲かせようという、そういうイキのいいのに出てきてもらいたい。
もはや、大阪寿司は絶滅レッドゾーンにあるのは確実である。
なくしてから、「ドド」や「リョコウバト」や「ニホンオオカミ」のことを思っても、あとのまつりなのである。
大阪市中央区高麗橋4丁目 筋違橋のたもと 「小鯛雀鮨 すし萬本店」前にて
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