先週、約一年ぶりに図書館へ立ち寄った際、先に紹介した2冊の実用書と10冊の文庫本を貸出。最初の一冊として手に取った本は、夏目漱石の著書 『二百十日・野分』このタイトルは今まで耳にしたことがなかったため、タイトルを見るなり飛びつきました(笑)
職場の休憩時間等も利用し、昨夜、読み終わりましたので、感想を~ …とはいえ、とても一言では表現できない、メモを取りたい箇所が目白押しです。φ(..)メモメモ
まず、表題作となっている『二百十日』の舞台は熊本県阿蘇。熊本生れの自分は、これだけでも興味を惹かれますが、性格も育ちも考え方も恐らく正反対である豆腐屋の圭さんと、彼の同伴者、二人の会話でほぼ成り立っています。今でこそ、地震や台風、火山噴火等に備える『危機管理マニュアル』もありますが、明治時代はそこまで… ここまで来たら、何が何でも登ると言い張る圭さんに対し、「天候が悪くなってきたから、明日、阿蘇山に登るのはよそう」という、天災が多かった平成っこの申し子のような同伴者。(ちなみに彼は庶民の味である、うどんを食べると腹をこわすほどの金持ちです!)
結局、二人は登り始めるのですが、言わんこっちゃない!(方言ですみません💦)状況となります。ここでも二人は「引き返そう」「進もう」とすったもんだした挙句の果ては…
漱石は、裏表紙にて解説者が説明しているように、「金持ちが幅をきかす明治の世を痛烈に批判」したかったのでしょうが、自分には、「引き返す勇気こそ大事!」だとか、「ほら、視界が悪くなればむやみに歩かない!」等々、危機管理能力の書として、読んでしまいました。雪の影響ですかねぇ、これは! 昨年は大型台風に備えたり、「万が一に備えた準備」を意識した一年でした。現在進行形のコロナも… 勿論、二人の会話を通し、口を開けば金持ち批判する圭さんを通して、漱石の意図は感じられはしますが。
私が時間が経つのも忘れて惹き込まれたのは、『野分』の方でした。知識人、漱石の著書を読むと、語彙力の無さ、無知であること、(歴史、美術、音楽、文学、芸能文化、どれをとっても!)思い知らされるのですが、そこは巻末の「注釈」で必要最低限の知識を補いつつ…
熊本で英語教師をし、英国留学の後、新聞社~作家となった漱石自身が投影されていると思われる、主人公白井道也先生。最初は白井先生とは対照的な思考の持ち主として描かれる大学生、高柳 (もう一人、同級生の中野)の声に耳を傾け続けました。愉快痛快な『坊ちゃん』が更に円熟味を増して私の手元へやってきた!そんな感覚です。白井先生と高柳。二人の関係は、教師と(元)生徒なのですが、同級生中野も巻き込み最後の最後に驚く展開が待っています。そこは読んでのお楽しみに…📚
また、驚きのラストへと導かれる「きっかけ」となる、総勢300名程の大学生達を目の前にし、檀上に立つ白井先生の「大演説」‼ 主人公、白井道也は、いつしか夏目漱石大先生の声、となって私の胸に響きました。聴衆の中には、勿論、教え子の高柳もいます。私は高柳くんの斜め後ろくらいの席にそっと座り、彼の様子を伺いながら、白井先生…漱石先生の大演説を聴いていました。本当はすべてここに抜粋したいくらいですが、とても長いので… 今の世にも通じるというより、いつの時代にも通じる、時空を超えた漱石のメッセージです。特に政治家どもに聴かせてやりたいです。「明治」を「平成~令和」に置き換えて読むと良いだけですから!。
白井先生は、ひょろっと細長い、風が吹けば倒れそうな見てくれです。しかも服装には無頓着で、檀上にも綿の羽織袴で上がります。しかも年中、お金に困ってる…。と、まるで何処かの誰かさんのようではないですか~苦笑。 細君(妻)はいても、簡単に金が入る就職の口よりも、たとえ売れずとも彼が書きたい原稿を書き続ける夫を理解はしません。そういう意味でも白井先生は『孤独』で『独り』です。 細君は経済のドンである義兄を「立派な方」と呼ぶ、まぁ一般的な庶民ですね。白井先生の「みてくれ」からも、ヤジる学生集団が出てきますが、負けるな、先生! 実際、負けてなんかいません! 先生を見下すヤジや冷笑も、最後には好意的な笑いに変えてしまうほど、白井先生の演説は力が漲るものでした。
一方の高柳くんも又、旧友中野くんがいるとはいえ、彼が書くものは世間に認められず、常に「孤独」や「疎外感」を感じている… つまり二人の「孤独な人間」がいる訳ですが、白井先生本人は、「独りでもそれを苦痛と思ってはいない」のです。この違いについて、先生を訪ねて散歩に誘う高柳くんに対し、白井先生が諭すように語る場面があります。私の周囲にも比較的多い、「群衆と共にいても寂しい派」の人達に一言、メッセージです。周囲に流されない「自分」があれば、独りでいても孤独は感じないものですが、白井先生も似たようなことを述べています。222ページより抜粋します;
「君は自分だけが一人ぼっちだと思うかもしれないが、僕も一人ぼっちですよ。一人ぼっちは崇高なものです」
…略
「崇高_ 何故…」
「それが分からなければ到底 一人ぼっちでは生きていられません。君は人より高い平面にいると自信しながら、人がその平面を認めてくれない為に一人ぼっちなのでしょう…略」
ここから長い先生の話が始まります。車引きや芸者など、他の職業も分かりやすい例を出しながら~ では、先生自身はどうなのかと問う高柳に対し、白井先生は答えます。
「私は名前なんて宛にならないものはどうでもいい。只自分の満足を得る為めに世の為めに働くのです。結果は悪名になろうと、臭名になろうと、気狂(きちがい)になとうと仕方がない。只こう働かなければ満足が出来ないから働くまでのことです。 …略」(224ページから抜粋)
上記の箇所を読みながら思い出したのは、塩野七生:著 『ローマ人の物語 ~悪名高き皇帝たち~」です。ネロ皇帝も天災の際など良いことを多く行いながらも、現代に残っているのは『悪名』だったな…と。自分自身はどうなのかな、と。只、自分の満足を得るため自由時間は趣味にひたすら走り、一方では〇〇さん達のために働いている…目立ちもせず、表立って有難がられることはなくても… (時々ありがとう、と音声で👂にすることもありますが)
そして~あの講演会~感動のラストへ~と物語は進んでいくのです。演説から、もう少しだけ最後に引用:
「自己のうちに過去なしというものは、我に父母無しというが如く、自己のうちに未来なしというものは、われに子を産む能力なしというと一般である」
「私は四十年の歳月は短くはないと申した。成程住んでみれば長い。然し明治以外の人から見たらやはり長いだろうか。 …略」
歴史に興味がない!と言い切る人に、これまで複数回、遭遇しました。ブログの記事でも…途端に相手に対する(人間としての)興味を失います。その方の職業が教師であれば、尚更… (以上、独り言)
「政治家は一大事業を成したつもりでいる。学者もした積もりでいるが、それは自分の積もりである。実業家も軍人も… 略 明治四十年の天地に首を突き込んでいるから、した積もりになるのである。 一弾指の間に何ができる」
今度は誰も笑わなかった。
…まだまだ白井先生の…漱石先生の演説は熱く語られます。続きは著書で~ 混迷する令和の今こそ是非!✋