タイム・トラベラー 最終回「タイム・エネルギーの謎」
偶然、見つけました!
『タイムマシン』を読んだばかりだったから、ついつい見てしまった! 1972年放送分の最終回だそうです。
最後まで視聴し、この独特の音楽は聴いたことがある!と思いました。私は3歳だったので、両親が見ていたのかも~
ただ、自分にとって『時をかける少女』は、中学生の時に見た原田知世さんですね(^_-)-☆
タイム・トラベラー 最終回「タイム・エネルギーの謎」
偶然、見つけました!
『タイムマシン』を読んだばかりだったから、ついつい見てしまった! 1972年放送分の最終回だそうです。
最後まで視聴し、この独特の音楽は聴いたことがある!と思いました。私は3歳だったので、両親が見ていたのかも~
ただ、自分にとって『時をかける少女』は、中学生の時に見た原田知世さんですね(^_-)-☆
2巻の前半部分を読みながら、31年前を思い出した。両親がカトリック信者で自分自身も洗礼を受けたが、無神論者だと出会った直後は話していた人のこと。その人は、砂漠地帯で(サウジアラビア)数年を過ごし、やっと母国に戻ることが出来た直後、日本行きを上司に命令(?)され、最初は断ったらしい。やっと家族と暮らせるようになったのに、何故海外?しかも日本? 何も期待しないまま、日本へやってきた。
「どっちにしろ半年の研修を受け、帰国を待つのみ、だから趣味のカメラも持参しなかったが、今、とても後悔している。だから、家族に頼んでカメラを送ってもらうことにした」
私にそう話した人の名はラミール。お正月にラミール、アート、チャット達を我が家へ招待した時だ。ずらっと並んだおせち料理に興味津々といった感じだった。
内心、カメラの送料の方が高くつくんじゃ...日本で購入すればいいのに、と思ったが、送られてきたのは一眼レフカメラで、本格派だったので納得した。
「サウジアラビアへ行く前は期待していた。探し求めたものは見つからず、失望しかなかった。日本へ来る前は、何も期待していなかった。それは人に対して。だが、最も期待していない場所で見つけた...」
そう言っていた人は、その後の手紙には、よくGod、神が登場するようになった。
「私が神を語ることを きっと驚いているだろうね」
と、本人も心境の変化を認めていた。こんなに日本や日本人を~英語では、admire 賞賛し、尊敬の念を抱いて頂き、日本人として嬉しかった。 要するに、人が人を信じられる体験をした時、神様を信じる気持ちになるのだろうか。
2巻の後半。 穏やかに流れていた空気が一変したかのように、波乱に満ちている。しかし、ぐいぐいと読ませる。書きたいことは沢山あれど、どこから手を付けたらよいのか!? ここでは1つだけ。
今、まさに問題となっている児童虐待について、だ。勿論、そのような定義はなかっただろうが。(1800年代のロシア)
ここで、1巻で問われた 「神は存在するか、しないか」という父親からの問いについて、「しない」と答えた次男、イワンが「する」と答えた三男で主人公、アリョーシャに モスクワへ旅立つ前に... 長いながい話をして聞かせる。 論点を集約するため、子供に絞って! (虐待の話)イワンが集めてきたという、あらゆる事例については、ここでは具体的には触れない。ここに書くのも苦しい内容なので。
何の罪もない、(筈の)幼児が親から、或は大人から虐待される。 幼児や子供に虐待する大人は、無防備な相手に対し、虐待することに快楽を感じるらしい。相手が泣けば泣くほど、苦しめが苦しむほど。
子供達は、親から逃れられず、ただひたすらに「神ちゃま」に祈る。だが、誰も助けてはくれない。或は、わが子をさらわれ、無残にも殺されたケースはどうか? 相手を許せるか?とイワンが問うと、アリョーシャは、「縛り首にすべき!」(だったと思います)叫ぶ。 私も虐待ニュースを耳にするたびに、「同じ方法で(虐待した方法で)死刑になればいい!」といつも言う。母曰く、「一体、誰が刑を執行するのよ!」 「AI ロボット!」
要するに、「許される罪」と「許されない罪」がある、と思う。聖書に書かれてあるように、「隣人を愛せよ!」 いいでしょう。「罪を許し...」 許せますか!こんな罪! (と思うものがある)
「母親にそんなやつを許せる訳がない! 途中略 母親が迫害者を許したとしても、(他人に殺された)子供の苦しみを許す権利までは母親にはない
この世界じゅうに、はたして他人を許す権利をもっている存在なんてあるのか? 調和なんて俺にはいらない。人類を愛しているから、いらないんだ。それよりか、復讐できない苦しみとともに残っていたい。おれはこの復讐出来ない苦しみや、癒せない怒りを抱いている方がずっとましなんだ」(247ページ4行目~)
他人を許す権利があるのは神様だ、というだろうけれど。イワンがいわんとするところ、分かる。無神論者ではないにしろ、同感、同感! キリスト教(どの宗派でも)に限らず、一神教に感じる違和感は、まさにこの点だな...と。小6の時の日記には、「人を愛し、許すことを天国からやってきた猫に教えてもらった」とは書いたが、このケースは許せる範囲の父親と娘の相違点だった訳で、罪ではない。
私もかつて、イワンと同じことを考えていた。許せないけれど、復讐はしない。自分には理性があるから。自分が罪人になるから。わが子を殺された親は、皆、そうだろう。復讐できない苦しみや、癒せない怒りを抱いて生き続けているんだろう... 修行僧のように...
ここまで~2巻を読み終えて...1巻からは考えられない深い話となった!これは良い!流石、『罪と罰』を書いた、ドストエフスキー先生だな、と思った。
ただ、もし、この内容を二十歳そこらで読んだとしても、人生経験、対人経験、そして読書体験が乏しく、とても理解も出来なかっただろうとは思う。
それぞれの巻に、訳者である亀山郁夫氏が、『読書ガイド』を掲載している。ちょっと休憩☕のつもりで、次巻へ進む前に、おさらい出来る点もグッド!
そして~偶然で驚いたのですが、フィリピンの友人がFBに聖書の一節を紹介しており、その内容が今回ここで触れたことに関連するではないか!特に太字の部分。こちらに聖書から~引用