「彼女たちは幸せを生きている。どんなに学んでもその幸せの域を出ないように教育されている。たぶん、あたたかな両親に。そして本当に楽しいことを、知りはしない。どちらがいいのかなんて、人は選べない。その人はその人を生きるように人はできている。幸福とは、自分が実は一人だということを、なるべく感じなくていい人生だ。」(吉本ばなな 著 『キッチン』より抜粋 角川文庫 1991)
図書館の本で、元々自分が持っていた単行本ではないので、巻末の「解説」も「あとがき」も自分の物とは違う。購入した時はオーストラリアに滞在中で、日本語の活字に飢えていた時期だった。今でもはっきり覚えているのは、「幸福とは、…なるべく感じなくていい人生だ。」と言う箇所に、マーカーで線をひいたこと。 ちょうど、シェアメイトの一人が10代の時、母親が亡くなったのだという話を聞いた直後だった。当時の自分は親元を離れて異国で暮らしてはいても、帰る場所があった。待っていてくれる人がいた。それはいうまでもなく日本であり、日本の家族だ。当時のシェアメイトも生涯孤独というわけではない。兄弟姉妹は多く、父親も健在だった。ただ、「独りでいる時、勝手に涙があふれてくることがある。母親を思い出したときに。そしてyou(that's me my friend was talking about!)と一緒にいると、余計に亡くなった母親を思い出すのだ」といった。その子が内心から放つ影と窓際から差し込む光が「キッチン」の世界そのもの…のようで、この小説は自分にとって特別になったっけ。 思えば当時の自分はここに描かれた「幸せの域を超えないGirl」だったのかもしれない。「エプロンをして花のように笑い、料理を習い、精いっぱい悩んだり迷ったりしながら恋をして…(途中略)」(82ページ10行目)本当の孤独を知らない、知らなかった、いやまだ知らないと言った方がいいか… その時まで身内を亡くした経験もなかったし、独りでいても一人な気がしなかった、そんな光の中だけを歩んでいく人生の途中だったような気さえする。
「人は状況や外からの力に屈するんじゃない、内から負けが込んでくるんだわ。と心の底から私は思った。この無力感、今、まさに目の前で終わらせたくない何かが終わろうとしているのに、少しもあせったり悲しくなったりできない。どんよりと暗いだけだ。」(127ページ 6行)
ここも当時、自分の単行本に線を引いた箇所。今回、なん十年ぶりに読み返し、再びあの瞬間に出合い、当時の感情や考えていたこと、観ていた景色や言葉を交わした相手が心の風景によみがえってきた。当時の友人とは今でもメールで交流があり、どういう訳か熱心に「とある宗教」の動画を送ってくれる。そうだった…とてもとても信教深い人だったっけ。今では自らの家族と(夫・妻・子供)幸せそうだから安心している。
「部屋はあたたかく、わいたお湯の蒸気が満ちてゆく。私は、到着の時刻やホームの、説明を始めた」(145ページラスト)
主人公、みかげのように、私のかつての友人も "帰る場所”を12年前、遂に見つけた。そこは本来の故郷からは距離的には遠く離れてはいたけれど、心のよりどころとなる場所のはず。今の世界情勢は、あの頃よりも悪い方角へ流れて行く気がしないでもない。ただ、あの当時もそうだったけれど、結局、人間は人種や宗教が違っていても、同じことにあったかいと感じ、寒さを感じるんだから! 共通点もいっぱいある、そこに目を向けようか…ってよく分からないアラーの祈りのビデオを見ながら想うのだった。