瀧の音八多盈て悲さし久那里ぬ連と名こ曽那可連弖な本支こ盈介れ
瀧の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ
(小倉百人一首55番歌 大納言公任 高木厚人先生教本「大字かな入門」を臨書 半切)
恥ずかしながら、ここまで何枚か百人一首の臨書をさせていただきました。
これを重ねていますと、7月20日付拙ブログで書きました、大字かなにおける
文字や文字群の大小・広狭・密度、墨の渇潤・濃淡、行や文字群の流れ、といったものが、
ああこんなものかなあーと、ぼんやりと、そのほんの一端ではありましょうが、何となく感じるところがあります。
いままでの書道の練習では感じなかったことです。
ところで、この歌の、百人一首全体の中における特徴について、
「ねずさんの日本の心で読み解く『百人一首』」(小名木善行氏著)にビックリするようなことがでておりました。
まず解釈は
“今はもう枯れてしまったけれど、滝の音の音色の素晴らしさは、今も世間に流れて聞こえてきます。”とされています。
ねずさんは、この歌の配された位置(順番)に着目されます。
この歌・55番歌の作者は大納言・藤原公任という高位高官、しかも博学多才な男性です。
その前53、54番歌には、子供を立派に育て上げた二人の母の歌が配され、
その後は、56番歌和泉式部、57番歌紫式部、・・・62番歌清少納言
と、錚々たる女性歌人の歌が続き、
この55番歌は、その女性群の中に配されています。
何故、撰者たる藤原定家はここにこの歌を配したのか、その意図を次のように解説しておられます。
それは、女性歌人たちの歌は(瀧の音色同様その素晴らしさは)今も人々の心のなかに生きていることを改めて思い出してもらい、
彼女たちの人生やその周囲の人々の生涯にまで思いを馳せながら、歌を鑑賞してもらえるようにするためだと。
撰者は、[名こそ流れて]の主役を、この女性歌人たちの歌にしたかったのでは、ということであります。
書道でも、もっとも神経を使わねばならない箇所なのでしょう。
この歌単品のだけの解釈はいろいろあるようですが、この歌を女性群の中に配した、撰者の意図に着目されての解説は初めてでした。
いやはや、目から鱗なのであります。