いせうた
をふのうらにかたえさしおほひなるなしの なりもならずもねてかたらはむ
伊勢歌
麻生の浦に片枝さし覆ひ成る梨の 成りも成らずも寝て語らはむ
3ヵ月ぶりの書道となります。
高野切第一種最後の巻、巻第二十の拡大臨書を続けております。
東歌の中の“みちのくにうた”、“さがみうた”に続いて、今回は“いせうた”です。
古今和歌集全体でみれば1099番歌で、最後から2番目の歌になります。(半切略1/2大)
先週は絵画の作品展をやっていましたが、受付当番の相方の方が、
当日来られていた知り合いの方から書道用の墨を貰われ、
“自分は書道をやらないから”として、その墨を私に譲っていただきました。
何と春日大社の「神煙墨」ということで、私にとってはこの上ない縁起物。
丁度拙ブログの書道でのシリーズで、次に書く予定だったのが「伊勢歌」でしたので、
早速にこの墨を使わせていただいた次第であります。
墨色も神々しさを感じるから不思議です。
ただ歌の意となると、悲しいかな、いくつかの解説書を読みましたが、よくは分かりません。
冒頭の“をふ”は古語辞典(三省堂)によりますと、何と“麻生”という漢字を当て、
麻の生えているところ、麻畑、とありますので、
伊勢の近くにこのような浦があったのでしょう。
(偶々この“麻生”というのが自分の現住所の区(あさお)と同じというのも、
無理筋承知で言えば何かのご縁かと。)
“なし(梨)”と“なる(成)る”とを対比させているのかな、とは思いますし、
“成る”は植物の実が結ぶ(生る)ことでしょうが、何故片枝だけが張り出しているのか、とか、
“成るか成らぬか”の予想と“寝て語らはむ”とはどう関係するのか等々、正直解りません。
そもそも伊勢歌は東歌の一つで、
この古今集でいう東歌は、東国で作られた歌をそのまま採集したものではなく、
「東遊」(あずまあそび)という歌謡の歌とのこと(日本文学者 片桐洋一氏)。
そして東遊とは、日本国語大辞典によれば、
“平安時代から行われた歌舞の名。
もとは東国の民間で行われていたものが平安時代に宮廷に取り入れられ、
貴族や神社の間にも行われるようになった。
後には専ら神事舞となる。”と。
上述の解釈も子宝に恵まれるという慶事のことかな、とも思いますが所詮は凡夫の浅知恵。
下衆(げす)が勘ぐるのは控えましょう。
書道では、伊勢の“勢”の字を、第一種に出てくる他の“勢”の字ともども、最も多く練習しました。
歌1行目の“かたえさし”、2行目の“なし”と“なり(奈利)”の連綿の筆づかいには、
捻じれたり開いたりした筆先を、どうやって整え、中心を通すかなど、
結構神経を使ったことでした。
コメントを読んでそうなのかと又教えた頂きました。
検索が的を外れているかもしれませんが、「書」に暗い自分としては、作者の解説を基に、手本の由来、歌の中身など調べてみることで、知識の範囲が広がる楽しさを教えてくれます。
本作品の流れるような筆致、濃淡、バランス・・
美しいです。