クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

続・箕郷周辺史跡巡り H-20-2-5

2008-02-06 08:15:25 | 伝説・史跡探訪
昨日はインレッドさんの幻想ロマン「蔓梅もどき」を読んで涙ボロボロ。
URLはここ、http://ymanotayori.at.webry.info/200802/article_1.html

それで山に行く気が出たが、今朝の榛名南面の雪を見て「うーん」と唸り
あっさり安直な散策に切り替え。予定はお菊の祠経由熊倉山だったのだが。
今日も箕郷地区をブラブラと一回りして史跡を訪ねる。

(1)龍善寺と内藤塚
28号線を北上、「上芝東」を保渡田方面に右折。昔、この信号を「東芝上」と
読んで東芝の工場は何処にあるのか?と聞いた人が居たっけな。
丁度1㌔地点に寺の案内看板とその脇に「内藤塚」、寺はその奥。


内藤って誰かといえば、武田24将の一人、内藤昌豊と嫡子の昌月。
写真の右が昌豊、左のが昌月の墓。


長野氏の滅亡後、信玄は昌豊に箕郷城を中心とした地域一帯の仕置きを任せ
戦乱で焼失した龍善寺の再建と寺号も「満行山」と改めさせる。長篠では
昌景らと共に信長・家康軍との正面衝突は利あらずと諌止するも勝頼は
聞き入れず、武田騎馬軍団は壊滅し昌豊も戦死、昌月がこの地に葬り
其の後、北條に従った昌月もここに眠っている。
但し、昌豊はかって信虎時代に諌死した工藤虎豊の次男、長野制圧後の
永禄11年に内藤の名跡を継いだもの。この点は信虎に成敗された
山縣虎清の名跡を継いだ飯富源四郎こと山縣昌景に似ている。
昌豊は新田作品や津本作品では頻繁に登場はするが、映画「影武者」や
NHKの大河ドラマでは影が薄い。


龍善寺は元々長野業政が先代の供養と戦没者慰霊の為に創立したもの。


(2)松山寺の梵鐘
再び28号を北上、フレッセイを過ぎて「西明屋東」信号の左に松山寺。
周囲からも目立つ鐘楼には高さ135㌢、内経60㌢の18世紀初頭の
梵鐘。


第二次大戦の鉄材供出運動も摺りぬけて残ったもの。


因みに井伊直政の高崎移城に際しては多くの寺社も行を共にしたが
町人も同じ事。町人の移動で空家が多く発生したのが今の西明屋、
武家屋敷跡の空家地区が今の東明屋。高崎市内の「連雀町・田町・四ッ屋
鞘町・新紺屋町・鍛冶町」などは箕輪からの移転町名である。

(3)行人塚と「芋植え桜」
「西明屋東」信号を前橋方面に右折、僅かの距離で群バス車庫手前の
「天神川」左岸の細道を北ヘ。車一台が漸くの際どい道が左折して
川を渡る寸前で路傍駐車。右手の丘に登ると古墳がある。ここが
行人塚と通称される6世紀の方墳。かつてここに篭もって往生を
遂げた行者があつたとの伝承による通称。


古い記録では高さ3㍍、直経20㍍の円墳と云われたがその後の
調査で方墳と訂正されている。
古墳の上の古木は樹齢300年を越す桜の巨木、里いもの植えつけ時期に
咲くので「芋植え桜」。


(4)石上寺の石像仏群
更に北上して26号線に突き当たって左手の東明屋の石上寺。一寸迷って通り
がかりの人に道を聞いたら「松本本家に電話した人?」といきなり
逆質問。偶然ながらこの方も和田氏末裔の松本さん、先日来和田氏の事を
聞いて廻ってる人が居ると聞いていたので風体からピンと来たとか。
畑の細道に車を止め放しで和田氏関連の昔話を色々と拝聴。
この地域の某会社社長さんの秀俊さん。色々有難うございました。
さて、石上寺には西口から入る。箕輪城・搦め手の僅かの上手に位置する。
箕輪城の鬼門にあたり代々の城の祈願所として尊重されて来たというが
見たところ無人寺のようで堂宇も荒廃し往昔の盛時は偲べない。
角には見覚えのある双神道祖神、そうか数年前に双神道祖神に凝っていた時
ここに来ているのだ。


正面に廻ると山門入り口に全長2㍍を越える輪廻の搭。


火袋には格子の透かし彫り


幢身の掉には長方形の繰り抜きがあって石の円盤(六道輪回の車)が
嵌め込まれている。円盤を手で回して念仏を唱えるのだとか。


本堂に近く付くと右手にこれも大きな「六地蔵石幢」


中央部の四面のうち、三面には夫々ニ体づつの地蔵像


一面は三つの梵字だがどうやっても写真に写らない。


その直ぐ右に道標、表は白衣観音菩薩、


裏は「右相満山 ガラノ湯、左ハルナ山 マツノ沢道」であるがこれも
写らないので残念。


左側には石に浮き彫りした薬師像、顔は丸く大きく一寸ユーモラス。


山門の右脇にある地蔵尊には「念仏供養・女人講中」との彫り。



その他、小さな仏像が一杯。

(5)龍門寺の山門
今度は26号で少し柏木沢方面に戻って左手の龍門寺。
ここの見所は山門と彫り物。直政時代の建立。
山門は「四本柱建唐破風作り」と云うが爺イの理解力を超えてしまう。


正面の桁にはタチバナの表紋


裏には井の裏紋


今の門は1794年に完成した二代目さん。

(6)松の沢百観音
今度は28号に戻って北上、大沢川を渡る直前の右に看板。


積雪のため車を路傍に置いて凍結した急坂を歩いて100㍍。
左右の六地蔵の奥の正面に大きな宝筐印搭


高台の上の30x20mの範囲に133体の壮観。奥に札所の本尊。


年代は殆ど不明と云われるが安永・寛政の文字も残るとの事で
西上州に多くの傑作を遺している高遠石工の手によるものと推定
されている。ここは水沢観音や白岩観音への巡礼道であったとか。

(7)金龍寺の宝塔
町中に戻って箕郷支所の向かいの金竜寺


入り口近くの「大乗月舟禅師の守り観音」をみて左奥に廻る。


本堂北側に二基の古搭
「赤城搭」と云われる北側の大きいのは廻りに文字が彫られているが
はっきり写らない。


小さい方は梵字が刻まれているが新田義貞より九代目の国繁のもの
とされるが何故ここにあるのかは判らない。


次に鳴沢湖脇にある筈の真福寺へ向かったが急坂細道は完全凍結で
ウロウロと別ルートを探すうちに時間切れ、予定していた真福寺・
龍沢寺・万龍寺は結局パス。後日の楽しみに取っておく。

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