クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

伝説の極楽院始末記  H-20-2-3

2008-02-03 16:43:59 | 伝説・史跡探訪
上の写真は極楽院跡の伝説の「さかさ梅」

あれほど盛況を誇った極楽院が何故に忽然と姿を消し、その時期や
理由について記録するものが無いのか?不思議に思いつつも色んな
資料を克明に調べていっても、謂れや最盛期の記述は多数あるが
その終焉に付いての詳細記述は無かった。唯一明治初期の郡村誌・
和田山村の項でたった一行「明治元年十一月廃寺」との記述を発見。
この郡村誌は明治政府が旧幕時代に支配者が変わる毎に提出の
慣例であった村明細帖に倣つて村政一覧を提出させ、県で補筆
訂正を加えて郡別に整理したもので群馬県ではM-13頃の完成。

明治元年と知れば大概の想像はつく。例の明治元年三月の
「神仏分離令」から発した「廃仏毀釈」の犠牲と見るしか無い。
そうこうしている内に、極楽院第二世鎮良つまり業盛の子・亀寿丸の
子孫たる故・長野正夫家と連絡が取れた。色々と聞いたら廃寺の
要因はやはり廃仏毀釈運動の犠牲との事が確認出来た。

故・正夫氏は箕輪城史の解説にしばしば登場している著名人、叔父に
当る故・文一氏は村で初めての東京帝大卒で日本のエレベーター関連の
技術発展に多大な貢献をされた方。

さて廃仏毀釈運動なるものを少し整理しておく。
中国で仏教と道教が習合してきた様に、古来から日本では風土に最も
適合した形としての神仏習合が成り立ってきたが、政治支配側は
神を仏の鎮守とし、後発の仏教僧侶は仏教を広める方便として仏に
対して神を低く位置付けた傾向がある。その結果、既に江戸時代には
檀家を寺院の経営基盤とし信仰抜きの民衆収奪の弊害が生じている。
しかし、江戸末期に国学が台頭すると復古神道の思想が勢いづく。
そこへ明治政府の神道国教化政策が乗っかると、当然の事として
仏教国教化は否定され神社の中から仏教色を排除しようとする。
この時、僧侶の風下に居た神官達が政府の威を借りて神仏分離を
飛び越えて廃仏毀釈運動を展開する。不和雷同の民衆も是に組して
堂搭・伽藍・仏像・仏画・経典の破壊に、当然寺院の破壊に手を
貸した。規模は違うが中国の文化大革命の明治版と思えば良い。
この時、廃寺に追い込まれた寺院は当時存在した寺院のほぼ半数
といわれる。極楽院もこの時の犠牲であり残った方が菅原神社とか。

若しかすると先年、大修復が完了した嵩山の仏像も元は元禄時代と
云われるから破壊はその犠牲か?地蔵峠下にある峠から放り出されたと
云われる破損した仏像もその類かな。

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2 コメント

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ホームページ分割 (tomo)
2008-02-04 16:40:20
 くたびれ爺様 いつも貴ブログを拝見しています。
上越の山は雪が深くて暫く停滞気味です。

 ところでこの度、私のサイトは写真が多くなり、サーバー指定の容量を圧迫してきましたので、
「Tomoの奥利根写真館」より山関連のページを「Tomoの奥利根山歩き」として分割いたしました。

 HPにリンクを貼りますので、お気に入り、リンクサイトなど追加をお願いします。
返信する
HP分割 (爺イ)
2008-02-04 17:02:42
tomoさん
ご連絡有難うございました。
早速、「とっておき」やリンク(当ブログではブックマーク)を
変更しました。今後ともご指導の程、願いあげます。
返信する

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