クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

入山峠から桜堂山(3) H-21-6-4

2009-06-03 12:15:11 | 伝説・史跡探訪
上の写真は爺イがかって拓本に凝っていた頃、高崎の石碑の路で練習した
万葉の防人の歌、この歌の「碓氷の山」は碓氷峠か ? 入山峠か?という
頭の整理のため、入山峠に係る古代東山道の話を纏める事にしたが、
折角だからブログに載せてしまおう。
今まで「東山道 トウサンドウ」と気軽に言ってきたが東山道には二つの
意味がある事を忘れていた。
遠い昔、「大宝律令」というものがあつた。701年の成立とされるので
大化の改新から56年後の事になる。命じたのは女帝・持統天皇の後を
継いだ文武帝、関わったの者たちの中に藤原不比等の名が見える。
ご存知、当時の超セレブ。
鎌足の次男で右大臣、長女は文武天皇夫人で聖武天皇の母、次女は
光明皇后でその四人の息子たちは藤原四家として連合して政権を握っている。
残念ながら全17巻の全文は伝わっていないが、この17年後に出来た改修版の
「養老律令」から内容は類推されると云われる。
この律令に出てくるのが「東山道」、一つには地域の区分、二つ目は都を
発してこれらの地域を通過して陸奥の国に至る街道を示している。
先ず、地域呼称からのお勉強。
全国を五畿・七道に分けている。五畿とは大和・山城・摂津・河内・和泉
であり七道とは東山道・東海道・北陸道・山陽道・山陰道・南海道・
西海道の七つ。
今回話題の「東山道」は現在の中部・関東・東北の「山地を中心とする
地方一帯」の総称なのだ。
当初は近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・陸奥・武蔵の八カ国、
その後に出羽が加わり、武蔵を東海道に編入して除かれ、陸奥が磐城・
岩代・陸前・陸中・陸奥に分割されて〆て13ヶ国として、その呼称は
明治末期まで続く。
さて、問題は都からこれらの東山道に属する国々を通過して陸奥までの
街道も東山道と云うのであり、東国に下る大動脈となっていたのである。
そして大化の改新の時に設定された駅馬・伝馬制度が養老律令時に諸道に
「三十里毎に駅を設置する」と定められた。当時の三十里は現代の五里
相当で早い話が20kの事、馬の一日の往復距離だったといわれる。
面白いのは貨幣制度のなかったこの時代、代金は米と思ったが「稲」
だつた。
単位は「束」。
余計な一言だが、6月で高崎市に合併された吉井町に伝わる「羊大夫」の
伝説で一日で都との間を往復したとされるが、実際はこの「馬で一日の
距離」の都の出先機関に地方官として通ったに過ぎないのだーーーと
爺イは思つている。
ここで問題発生、当時の記録に信濃・長倉と上野・坂本駅を通過した
との記録はあるが、大事な中間点の記録がないのである。中間点の
記録が一箇所でもあれば現代に至るまで古代の東山道は「碓氷峠」
なのか?「入山峠」なのか?の延々たる議論は必要なかったのである。
勿論、中世以降は碓氷峠が東山道の主流となり旧中山道に引き継がれ
ているのは論を待たないが、古代が「ご当地争い」の的。
坂本駅は現在でも坂本宿としてピンと来るが、群馬県在住者にとっては
信濃・長倉は馴染みが薄い。長倉といっても広いので現在の中軽駅付近の
沓掛か又は少し西の古宿と思われるが、「安中志」では「長倉は沓掛の古名」
としている。
長倉から坂本までの経路の特定のため、過去から現在に至るまでに、
多数の学者や研究者たちが万葉や記紀などの文献を引用して論文を
発表してきたとの事であるが文献研究からは結局結論は得られていない。
そこで残る手段となると発掘調査・出土品・地名・社寺・地形からの
アプローチとなる。
かっては碓氷峠が古代の東山道ということで固まりつつあつたのだが、
入山峠の祭祀遺跡発掘で出土の遺物が公式に陽の目を見たので、
入山峠説が俄然として有力になった。
小生のように群馬に住んでいると碓氷坂越えとは群馬から長野に行く事と
短絡するが古代では逆である。5世紀から6世紀の頃、漸く安定の兆しを
見せ始めた朝廷は東国経営に乗り出す。朝廷とは大陸から稲作と
青銅器をもたらした第一次渡来人に加えて鉄の文化を持った天皇家を
含む第二次渡来人の集団である。彼らは大人しい土着の縄文人や
第一次渡来人を東や西北に追い詰めて駆逐しつつあつた。
だが、東国は未だ「毛野国」であり荒ぶる神の国。東夷として朝廷に
伏さない未知の国。峠越えと云っても西から東への通過が主で、東から
西へは殆ど無かったに違いない。それ故に東国の入り口の峠で自分の
行く手に立ちはだかる東国の神々に対して鎮魂の弊を捧げてお祓いを
したのであろう。
おまけにあらゆる災害は全て神々のお怒りとして受け止めていた時代
だから。
そして、当初は精巧な貴重品だったのが、東国経営が進んで危険度が
低くなるにつれて滑石製の模造品に変わっていったものと思われる。
但し、古代祭祀遺跡から江戸期のものが出ているのは何とも説明の
仕様が無いが。
地形的に考えて駅間距離に目をつけて長倉・坂本間20kとすると、
碓氷越え17k、入山越え16kで甲乙付け難く双方が該当してしまう。
更に峻険度を考えると、長倉から入山峠に一直線で来て、碓氷坂の
一番低い1035mの峠を越えてなだらかに下って坂本というのは実に
無理が無い。
一方、碓氷峠越えが東山道古道とすると、先ず長倉からは離山
(1256mの三角点山)に遮られて峠は見えないし、峠自体が1190mの
高さにある。更に下りは急カーブ、急坂が続く北斜面の日陰道。
子持山・刎石山の通過は厳しく、日当たり良く水が得られて人里
近くの条件を満たす入山コースに比べると見劣りがする。
それに刎石の一部を除いて沿線に古代の遺跡・遺物が見つかって
いない。
但し、祭祀遺跡が浅間噴火で埋没したかも知れないし、中世の初期に
それまでの祭祀遺跡の上に熊野神社が建設されて遺跡は覆われたとも
考えられない事もないが。
こうして東国経営と律令政治の中で生まれた入山峠越えの古東山道は、
やがて東国武士団の勃興による鎌倉幕府開設という時代の転換期を
迎えて軍用道路として碓氷越えに移行していったのだろう。
但し、入山峠道は中世初期でその任務を終えたのではない。江戸時代、
信州の回米の殆どはこの道を運ばれている。1837年から1845年の間にも
10万俵の記録があるという。年間の馬の通過頭数に換算すると5000頭。
この馬たちは坂本を通らずに横川に達しているので坂本宿の問屋場が
衰退し差し止めの訴えが再三出されたとか。
更に、この道は明治以降も入山の人たちが軽井沢に行く生活道路と
しても生き続けバイパス計画の始まる時まで利用されていたらしい。
それだけ通行容易な道が古代において官制の東山道として公人の通行、
租税品の物資運搬用にこの入山の道筋を利用しなかった理由は
見当たらない。従って爺イは古代東山道は入山峠という説に一票を
いれる。

それにしても、平将門が平貞盛を追い掛け回した時代は入山か?
上杉憲政が知将・長野業政の反対を押し切って信濃に進軍したのは、
もう碓氷の時代だろうな。武田軍の執拗な西上野攻めは内山峠・
入山峠を含めて国境全面かも。
先兵の真田軍団なら長野原を通ってきているか?
関が原に急ぐ秀忠の大軍団は幅広の遺構の残る碓氷の東山道だろう。
まあ、こんな勝手な想像をしていると頭の中では500年位は簡単に
逆回転する。

かつて拓本の修練中に大きさと彫りの具合から最も気に入っていた
この碑は大塚雅休先生の筆による物だが、この防人の万葉歌(巻14ノ3402)、
その碓氷の山の舞台は絶対に入山峠だなーーーと勝手に決め込む爺イである。




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