リハビリ散策第二弾、今日は安中の古城址探訪。
安中氏が最初に支配したのは松井田だ。それも地元の豪族かと
思ったら越後からの移住者だったのだ。「安中志」に
「出羽守忠親、後に安中出羽守と改、長亨元年(1487)上野国
碓井郡松井田小屋城を建て、越後新発田より引き移るーー」
「上野誌」の記録は「松井田西城に引き移り居住す」
とある。
小屋城は新堀の松井田城安中曲輪の事だし西城とは同じ新堀の
金剛寺辺りの事で記録では新堀諏訪城といわれて諏訪氏が
居たともいうのだが。
つまり、信玄の西上州攻略関連の文書には「諏訪城」とあると
言うことから西城辺りには諏訪氏を名乗る武将がいたとされ
それが安中氏が諏訪氏からの派生と言われる由縁。
更に付け加えると「上野国風土記」には安中氏は「石上部
(いそのかみべ)」という物部一族で律令時代(689年)から
群馬にいたと書かれている。そうならば新発田も諏訪も
吹っ飛んでしまう。まあ、爺イなどには判断しかねる問題
だから多数派の新発田説にしておこう。
だが新発田に安中氏のいた記録がないというから困ったものだ。
大筋としては長亨元年(1487)に忠親が松井田に西城を築いて
住み、大永三年(1506)に忠親が没すると息子・忠清が後を継いで
原市に榎下城を築いて居住した。現在の原市・久昌寺の所。
一説に忠親弟とも聞くが忠政が忠親孫となっているから
やっぱり忠清は息子が正しいらしい。
そこで先ず、榎下城址を訪問。どうやら「えげ」と読む
らしいが仏教用語の「会下」から来ているというから
古くからの地名ではないようだ。18号線を西進して「原市」
信号を右(北)折、細い道を0.7k程、久昌寺入り口で看板。
この城址は認知されていないとの事で教育委員会の表示は無い。
寺の北と西に遺構ありと言われるが素人目には良く判らない。
こんなものも遺構の一つか?
城の形としては約35年の間だけ。墓地の中に忠清の墓があるが
久昌寺そのものが廃城後に建てられた物だから当然墓も
供養塔のようなものと解釈したほうが良さそうだ。
原市信号に戻りセキチューに駐車して南側に足を伸ばし
簗瀬城址に向かう。ここの別名は「原市城」だが
「城山稲荷宮」となっていて其の入り口に城址看板。
安中氏の榎下城と磯辺城の中間であるので両城の連絡や
信玄の八幡平陣城への監視役だったらしい。信玄の侵入後は
使われること無く歴史にも全く登場しないままに廃城。
忠清の没後はその子の忠政となり永禄二年(1559)に野尻に
城を築いて自分の姓から安中城と名づけたと伝わる。
野尻の豪族・窪庭図書に上野尻に代替地を与えてその屋敷の
敷地に城を築いたというが、この窪庭さん 安中七騎と言われる
安中氏の与力の次に城持ちではないが八人目に名を連ね
手持ち兵力が一番多い有力者だったらしい。
安中城址は周知の如く戦国期の城と江戸期の縄張りとの
混在だが古い遺構はバイパス工事でズタズタになったらしい。
場所は文化センターや安中小のあるところ。安中小の南口に
城址の石碑。
校内の随所に遺跡の位置を示す看板が残っている。
そして永禄六年(1563)に忠政は息子の忠成に安中城を任せて
自分は松井田小屋に戻って城を改修して信玄の襲撃に備えた。
松井田小屋城とは現在松井田城と言われている松井田本城本丸の
外郭で「安中曲輪」の事。城の拡充は大道寺時代の造成。
考察では忠親の時代の安中氏の勢力は松井田中心、次の忠清の
時代に東方に伸びて原市近辺まで、忠政の時に漸く松井田・安中
一円を手中にしたということらしい。
さて新発田に安中氏の痕跡がないなら何処から何の縁で
碓井に来たのか判然としない。
新発田との唯一の結びつきは、かつて新発田は鎌倉期に磯部の
地頭だった佐々木盛綱が入部したところと言う事だけ。
更なる推論では当時のこの地は上杉の所領だったので上杉が
所領を与えたのかも知れないと。この時期の上杉当主は代々
越後から来ている。1418年の憲実、1455年の房顕、1466年の
顕定など。彼らが越後から来るときに越後出身の近臣を伴ったで
あろうことは容易に想像できる。つまり、佐々木一族の末裔か
関係者として安中氏が入部したのだろう。
弘治三年(1557)、かの有名な瓶尻(ミカジリ)の戦いが起きている。
何で有名かと言うと戦場の場所が特定できていないという
まか不思議さを持っているから。この戦いは元々は氏康の陰謀だ。
関東全域が欲しい氏康にとって屡関東に入ってくる謙信とその
配下となって西上野を握る箕輪・長野と武蔵に張り出してきた
岩槻・大田が邪魔だった。そこで謙信の上州侵略阻止を謳い文句
にして信玄と組んで北関東に侵攻し利根川の西を信玄に、東は氏康が
貰うと言う密約だっだ。
信玄を迎え撃ったのは長野業政を大将とする北武蔵・西上州の
十将の兵・二万、この内の八将は業政の女婿というから業政の
政略が垣間見える。勿論、この中に小幡信定・安中忠成(最初の妻は
業政兄・業氏の娘)の名がある。
さて、その場所なのだが、地名辞典には「かく名高き戦なれど
瓶尻の地、定かならず。甲軍碓井峠を越え来たりて片や箕輪よりの
出会いならば碓井郡の内ならん」の頼りなさ。
その他に諸説はあるが現在の推定は原市・安中の丘陵地帯という
程度で収まっている。戦いは一進一退の乱戦だったが、謙信が
信濃に牽制の軍を出したので信玄は引き上げ、松井田・安中は
陥落を免れたが、信玄はこの四ヵ月後に再び来攻して田畑薙ぎを
徹底し長期戦で長野勢の戦力低下を図っている。
この時、信玄が首実検した首を埋めたのが原市・簗瀬の
首塚と言われるが、ここは別の説ではずっと後の安中・松井田城
攻略のための信玄の拠点陣屋の八幡平陣城跡との言い伝えの
ある場所でもある。
原市信号から更に西進して「碓井病院入り口」を左(南)折し
道なりに100m強、大きな竹薮の南に回りこむと直ぐに道標。
全体の様子はこんなもの。
首塚お堂「万霊堂」
首塚供養塔
但し、これは古墳を利用して作られた「塚」であり正式名称は
「原市町12号古墳」で横穴式石室円墳、昭和6年に小学生が
偶然に頭蓋骨を発見、その数150ヶ、四肢骨は無かったらしい。
研究の結果、長頭・短顔・広鼻・低付根という中世日本人の特徴が
認められるのでこの近辺での戦国時代の闘争の犠牲者と
判定されている。1783年の天明大噴火のときの火山灰に覆われ
て居たと言うから江戸期又はそれ以前に村民によって埋葬されてい
たものが発見されたと見られる。
現在のものは改めて地元有志が「万霊堂」を建てて慰霊したもの。
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安中氏が最初に支配したのは松井田だ。それも地元の豪族かと
思ったら越後からの移住者だったのだ。「安中志」に
「出羽守忠親、後に安中出羽守と改、長亨元年(1487)上野国
碓井郡松井田小屋城を建て、越後新発田より引き移るーー」
「上野誌」の記録は「松井田西城に引き移り居住す」
とある。
小屋城は新堀の松井田城安中曲輪の事だし西城とは同じ新堀の
金剛寺辺りの事で記録では新堀諏訪城といわれて諏訪氏が
居たともいうのだが。
つまり、信玄の西上州攻略関連の文書には「諏訪城」とあると
言うことから西城辺りには諏訪氏を名乗る武将がいたとされ
それが安中氏が諏訪氏からの派生と言われる由縁。
更に付け加えると「上野国風土記」には安中氏は「石上部
(いそのかみべ)」という物部一族で律令時代(689年)から
群馬にいたと書かれている。そうならば新発田も諏訪も
吹っ飛んでしまう。まあ、爺イなどには判断しかねる問題
だから多数派の新発田説にしておこう。
だが新発田に安中氏のいた記録がないというから困ったものだ。
大筋としては長亨元年(1487)に忠親が松井田に西城を築いて
住み、大永三年(1506)に忠親が没すると息子・忠清が後を継いで
原市に榎下城を築いて居住した。現在の原市・久昌寺の所。
一説に忠親弟とも聞くが忠政が忠親孫となっているから
やっぱり忠清は息子が正しいらしい。
そこで先ず、榎下城址を訪問。どうやら「えげ」と読む
らしいが仏教用語の「会下」から来ているというから
古くからの地名ではないようだ。18号線を西進して「原市」
信号を右(北)折、細い道を0.7k程、久昌寺入り口で看板。
この城址は認知されていないとの事で教育委員会の表示は無い。
寺の北と西に遺構ありと言われるが素人目には良く判らない。
こんなものも遺構の一つか?
城の形としては約35年の間だけ。墓地の中に忠清の墓があるが
久昌寺そのものが廃城後に建てられた物だから当然墓も
供養塔のようなものと解釈したほうが良さそうだ。
原市信号に戻りセキチューに駐車して南側に足を伸ばし
簗瀬城址に向かう。ここの別名は「原市城」だが
「城山稲荷宮」となっていて其の入り口に城址看板。
安中氏の榎下城と磯辺城の中間であるので両城の連絡や
信玄の八幡平陣城への監視役だったらしい。信玄の侵入後は
使われること無く歴史にも全く登場しないままに廃城。
忠清の没後はその子の忠政となり永禄二年(1559)に野尻に
城を築いて自分の姓から安中城と名づけたと伝わる。
野尻の豪族・窪庭図書に上野尻に代替地を与えてその屋敷の
敷地に城を築いたというが、この窪庭さん 安中七騎と言われる
安中氏の与力の次に城持ちではないが八人目に名を連ね
手持ち兵力が一番多い有力者だったらしい。
安中城址は周知の如く戦国期の城と江戸期の縄張りとの
混在だが古い遺構はバイパス工事でズタズタになったらしい。
場所は文化センターや安中小のあるところ。安中小の南口に
城址の石碑。
校内の随所に遺跡の位置を示す看板が残っている。
そして永禄六年(1563)に忠政は息子の忠成に安中城を任せて
自分は松井田小屋に戻って城を改修して信玄の襲撃に備えた。
松井田小屋城とは現在松井田城と言われている松井田本城本丸の
外郭で「安中曲輪」の事。城の拡充は大道寺時代の造成。
考察では忠親の時代の安中氏の勢力は松井田中心、次の忠清の
時代に東方に伸びて原市近辺まで、忠政の時に漸く松井田・安中
一円を手中にしたということらしい。
さて新発田に安中氏の痕跡がないなら何処から何の縁で
碓井に来たのか判然としない。
新発田との唯一の結びつきは、かつて新発田は鎌倉期に磯部の
地頭だった佐々木盛綱が入部したところと言う事だけ。
更なる推論では当時のこの地は上杉の所領だったので上杉が
所領を与えたのかも知れないと。この時期の上杉当主は代々
越後から来ている。1418年の憲実、1455年の房顕、1466年の
顕定など。彼らが越後から来るときに越後出身の近臣を伴ったで
あろうことは容易に想像できる。つまり、佐々木一族の末裔か
関係者として安中氏が入部したのだろう。
弘治三年(1557)、かの有名な瓶尻(ミカジリ)の戦いが起きている。
何で有名かと言うと戦場の場所が特定できていないという
まか不思議さを持っているから。この戦いは元々は氏康の陰謀だ。
関東全域が欲しい氏康にとって屡関東に入ってくる謙信とその
配下となって西上野を握る箕輪・長野と武蔵に張り出してきた
岩槻・大田が邪魔だった。そこで謙信の上州侵略阻止を謳い文句
にして信玄と組んで北関東に侵攻し利根川の西を信玄に、東は氏康が
貰うと言う密約だっだ。
信玄を迎え撃ったのは長野業政を大将とする北武蔵・西上州の
十将の兵・二万、この内の八将は業政の女婿というから業政の
政略が垣間見える。勿論、この中に小幡信定・安中忠成(最初の妻は
業政兄・業氏の娘)の名がある。
さて、その場所なのだが、地名辞典には「かく名高き戦なれど
瓶尻の地、定かならず。甲軍碓井峠を越え来たりて片や箕輪よりの
出会いならば碓井郡の内ならん」の頼りなさ。
その他に諸説はあるが現在の推定は原市・安中の丘陵地帯という
程度で収まっている。戦いは一進一退の乱戦だったが、謙信が
信濃に牽制の軍を出したので信玄は引き上げ、松井田・安中は
陥落を免れたが、信玄はこの四ヵ月後に再び来攻して田畑薙ぎを
徹底し長期戦で長野勢の戦力低下を図っている。
この時、信玄が首実検した首を埋めたのが原市・簗瀬の
首塚と言われるが、ここは別の説ではずっと後の安中・松井田城
攻略のための信玄の拠点陣屋の八幡平陣城跡との言い伝えの
ある場所でもある。
原市信号から更に西進して「碓井病院入り口」を左(南)折し
道なりに100m強、大きな竹薮の南に回りこむと直ぐに道標。
全体の様子はこんなもの。
首塚お堂「万霊堂」
首塚供養塔
但し、これは古墳を利用して作られた「塚」であり正式名称は
「原市町12号古墳」で横穴式石室円墳、昭和6年に小学生が
偶然に頭蓋骨を発見、その数150ヶ、四肢骨は無かったらしい。
研究の結果、長頭・短顔・広鼻・低付根という中世日本人の特徴が
認められるのでこの近辺での戦国時代の闘争の犠牲者と
判定されている。1783年の天明大噴火のときの火山灰に覆われ
て居たと言うから江戸期又はそれ以前に村民によって埋葬されてい
たものが発見されたと見られる。
現在のものは改めて地元有志が「万霊堂」を建てて慰霊したもの。
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