クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

沼田の石仏探訪(3)沼田徒然 H-21-6-21

2009-06-19 20:20:24 | 双神道祖神・磨崖仏・道しるべ
上の写真は沼田真田氏の初代と言われる真田信之の肖像。

(1)はじめに

沼田地区の石像物探訪で目に触れたのは18世紀ぐらいの物が主体だったが
別格で追母薬師伝説が10世紀初頭の話で特別に古い。
小倉百人一首の「心あてに 折らばや折らむ 初霜の おきまどはせる 
白菊の花」に絡めた伝説の主役は平安前期の歌人で
凡河内躬恒(オウシコウチノミツネ)とその母親の白菊御前。
道真左遷の時期に三峰に幽閉された凡河内躬恒は古今和歌集の選者でも
あり36歌選の一人。
二十一世紀から見れば、この舞台は遥かな昔、道真の左遷は901年、
古今和歌集の選上が905年。だから本人は生没年不詳とされるが、
主役の凡河内躬恒は九世紀末から十世紀初頭の人。
三峰山の名も躬恒(ミツネ)からとの伝承もある。
関東では平将門が暴れ出す天慶の乱よりも前の事。

(2)前期沼田氏

それから連想して、その頃の利根は?に就いては爺イは見当もつかないが、
当時の地方の一般動向を当て嵌めると荘園時代の初期だつたと思う。
京においては藤原氏の他氏族排斥で敗者が国司として地方に下り、
その任が満ちても帰らずにその地で豪族化し荘園を領有しつつあつた時代か?
天慶の乱(935)の後に平家のある者が利根の地に来て土着し、利根の荘園化が
促進されたといわれるが、その土着したのが前期沼田氏と云われる大友沼田氏。
さて、12世紀後半になってその大友氏の子孫に現れるのが「平経家」、
その娘の名を「利根局」と云い源頼朝の妾の一人、そこに生まれた(1172)
のが大友能直。
この人、藤原親能の養子になっているので「大友氏の三姓」と言われた。
つまり、父方は源氏、母方は平氏、養父からは藤原だから。
吾妻鏡に出てくる「沼田太郎」なる人物は、「平経家」の長子・太郎実秀の事、
だから経家は沼田氏を称えなかったにしても、その直系の一族によって沼田氏と
称されていた事により、後の三浦沼田氏より以前の沼田氏と云う事で
「前期沼田氏」と言われるそうである。
だが、若死にしたと推定される太郎実秀から利根を譲られた「利根局」の息子の
大友能直は、頼朝の命令で九州に下り九州における大友氏の祖となったので、
前期大友沼田氏はあっけなくその終止符を打つ。1196年の事。
余談を加えれば九州大友氏八代の大友氏時が南北朝時代に引退の場所として
祖先の故地・利根の川場を選んでいる。

(3)後期沼田氏

一般に利根の沼田氏と言えば、この後期沼田氏の「三浦沼田氏」であると
いわれるが異説もあつて素人泣かせこの上もない。だが、この系列の末端には
沼田仏像探訪の途中でその墓所をみた「沼田平八郎」が居るから素通りは出来ない。

1247年、北条時頼の時代の鎌倉で一大事件が発生する。いわゆる「宝治合戦」で
時の三浦一族の頭領泰村以下主だったものは全て自刃して果て、執権北条が
完全な独裁体制を築いた騒乱。
当時の記録に自刃した武将たちの名も詳細に記録されており、当然に息子の
「景泰」の名もそこにある。だが、困った事に伝承では、その景泰が利根に
逃れて三浦沼田氏の始祖となったという。そこで郷土史研究家の先生方が長期に
亘って研究された結果、利根に逃れ得たのは、死亡名簿の中に唯一「存亡不審」
と書かれた「家村」らしいとされるに至つた。この人物は頭領・泰村の弟で
景泰の叔父。
系図からすると泰村や家村は大友能直とは「又従兄弟」の関係にあるので、
それが逃避先を大友私領の僻地・利根にした理由かもしれない。
それに三浦氏を目の敵にした時頼が1263年に早死にし、続く長時も時宗も
直後に襲った蒙古危機に精一杯で三浦残党の詮索などしていられなかったのも
幸いしたであろう。
最初に三浦・沼田氏が拠ったのが荘田城で1247年から1405年までの七代158年間。
時代はやがて来る戦国時代の気運が満ちてこの城が手狭になったらしい。
そして八代・景朝の時に「小沢城」に移転。
この高台の城址には先日の探訪の折に立ち寄つているし、平八郎の墓も見ている。
ここは1405年から1519年までの114年間。
更に十一代・泰輝の時、幕岩城に移る。小沢城の欠陥を感じたからと言われる。
当時の呼称ではこの幕岩の場所は「滝棚の原」改め「田北名原」、
それで台地が初めて沼田と言われるようになる。
そしてその後の十二代目が問題の顕泰さん、通称の「万鬼斎」の方が知られている。
「万鬼斎」は青年期の僅かに13年間で、1532年に「蔵内城(現在の通称沼田城)」
に移る。
この万鬼斎殿、やたらと縁起かつぎが激しく、世情は戦国時代に突入している
のに迷信に囚われ過ぎ。おまけにお定まりの女道楽、白根温泉で拾った女を
「ゆのみ」と名付けて側室とする。そして生まれたのが三浦沼田の最後の主と
なつた後の沼田平八郎景義である。
ここで御家騒動勃発。「ゆのみ」の兄が取り立てられて金子泰清、兄妹で計画
したのが側室「ゆのみ」の子・平八郎を世継ぎにしようとするもの。
正室の長子は早世、三男・朝憲が沼田を継いでいたが、万鬼斎は愚かにも
甘言に乗せられ、朝憲を川場で謀殺してしまう。
一方、城内ではこの緊急事態に対して総勢が復讐のため川場に殺到する。
城方には厩橋の北条も白井・長尾も支援したので、万鬼斎・沼田平八郎景義は
三浦同族の会津・芦名を頼って落ち延びる(1569)が「ゆのみ」はその道中で
没し万鬼斎も現地で亡くなる。
芦名の祖は三浦義明の子・義連とされるから、その縁だろう。
(4)その後の沼田
ここに沼田は空白時代を迎える。つまり、万鬼斎・景義は逃亡し、
十三代朝憲は死亡しているから。それを埋めたのが上杉の沼田支配である。
万鬼斎は既に1559年のころから謙信に屈服しているので、城方のご注進に
よって謙信は沼田に城代として藤田信吉を送り込む。ところが謙信が
亡くなると早速、北条が圧力を加えるので越後勢は信吉を残して越後に逃亡、
仕方なく信吉は北条に鞍替えしたので、沼田は北条の支配下に替わる(1578)。
既にこの頃の西上州は羽尾・斎藤・真田が入り乱れての合戦三昧を経て
勝頼の上州攻略の時代に突入していた。作戦の推進は岩櫃の真田昌幸、
利根の反北条勢力を味方にしてちょっかいを出し始めた。
北条も反撃するが小川可遊斎などに翻弄され撤退、昌幸は沼田に進駐する。
藤田信吉は変わり身早く武田に擦り寄っていた(1580)。
一方、1569年以来、流浪していた平八郎は、万鬼斎も「ゆのみ」も亡くなつて
いたので、太田金山城に身を寄せ、重臣の娘を娶るまでに信用を得る。
1581年に至って西への進出を図る金山の由良氏に便乗して周辺の豪族たちの
支援を得て、沼田奪還の反撃を試みる。だが、ここでも昌幸の策略は一枚上手。
つまり、ゆのみの兄・金子氏が城代だったので、平八郎を討てば千貫文に
当る土地を与えると言って唆し貪欲の金子氏を利用した。金子氏は対陣する
平八郎を内通と見せかけて蔵内城におびき出して謀殺する。

ここに三浦沼田氏は1247年以来の334年の沼田支配の幕をおろしたのである。
やがて金子氏はその奸智と強欲を昌幸に嫌われ、職を奪われ吾妻の僻地で病死。
1580年から真田が進駐した沼田も1582年には天目山麓の田野で勝頼が滅んで
織田支配となり厩橋城に入った瀧川一益の支配下となる。
だが、三ヵ月後に本能寺の変で織田支配も82日。当然のように沼田に帰ってきた
真田と武田滅亡のとき、家康に甲州、上州は北条との密約をしていた北条が激しい
沼田争奪戦。沼田を守り切ったのは昌幸の弟・矢澤頼綱、やがて秀吉の仲裁で
両者は和解して沼田には北条の城代・猪俣憲直が入る。ところが岩櫃を狙っていた
猪俣は真田の名胡桃城を攻めたので仲介した秀吉が約定違反として大激怒。
折からの北条の上洛拒否も合わさって全国の武将が集められ、派手な
小田原攻め、三ヵ月後に降伏。ここで沼田領は晴れて真田に与えられる(1590)。

上田城を居城とする昌幸は、沼田を長子・信之(信幸)に任せるが、当主では
ないので沼田は昌幸領の一部で半独立。としてもこれが沼田真田の初代の
発祥と言って良い。
信幸は父の昌幸や弟の幸村がその後の伝承により天下の著名人になったのに
比べて地味ではあるが、どの史書でも「思慮深く武勇に富み道義に厚く」
とベタ誉めされる明君。
妻は徳川重臣の本多忠勝の娘、当時としては奇跡のように93才まで生きて
院政を敷く。
やがて、天下分け目の関ヶ原の合戦。西軍に組した父や弟と別れて東軍に
属し活躍。
戦後には九度山に追放された昌幸の沼田を含む旧領から加増されて
九万五千石の大名。西軍に参加するために宇都宮から上田に帰る昌幸を
蔵内城に入れなかった逸話で有名になった信之妻の小松姫(大連院夫人)は、
流石に家康の曾孫、本多の娘と称えられ、今でも正覚寺の開基とされている。
その後、1614・1615年の大阪の陣では、病のため本人は出陣していないが、
長子・信吉と二男・信政が参陣して面目を保つ。
1616年に信之は上田に専念のため信州へ帰り、沼田は信吉に譲る。

小田原戦後の1590年からの26年間に城郭整備・水路開鑿・田畑開拓・
産業発展・市場の設立など善政を敷いている。
1622年には十万石で松代に転封、沼田は分地されるが、未だ正式な沼田領とは
認知されていない。1634年、安定的な施政の二代目信吉が疱瘡のため、江戸で
40才で亡くなると、三代目は信吉の弟・信政に後見されて信吉正室の子、3才の
熊之助が継ぐが不幸にも7才で夭折。この墓と称する物を天桂寺で見てきた。
四代目は信政となる。
だが、信吉が参勤交代の途中、桶川で拾った女・お通に信吉の死後に男子が
生まれていた。幼名を喜内、長じて信澄(信利、信直とも)となり、五千石で
月夜野・小川城で捨て扶持。

1656年に長期政権の松代の信之が漸く隠居したので信政が松代に迎えられると
沼田三万石は丸ごと信吉妾腹の信澄の物となり五代目。
ところが、1658年に肝心の信政が62才で没し長老の信之がその後継に信政六男の
たつた2才の信房を指名したので、当然自分が松代十万石を継げると思っていた
信澄との間に熾烈な後継争いのお家騒動が勃発。
争いに敗れた信澄は松代を凌駕し様として1662年に強引な検地で三万石を松代を
上回る14万石と過剰申告し苛斂誅求といえる猛烈な農民搾取を断行、併せて
1680年に両国橋用材調達に失敗して改易になり沼田真田氏は滅亡する。

この間、松井市兵衛の訴願事件、杉木茂左衛門の直訴事件が発生している。
再び、天領となった沼田には1703年に下総から本多氏が入り、1730年に駿河に
転封後は黒田氏の時代、次いで1742年には老中の土岐氏となり明治まで続く。
1868年の戊辰戦争では会津と姻戚ではあったが新政府に恭順し新政府軍を
沼田に進駐させ三国峠で会津軍と戦う。1869年の版籍奉還では最後の領主・
土岐頼知が藩知事、1871年の廃藩置県で沼田県から群馬県に入る。土岐氏が
華族令で子爵となつたのは1884年の事であつた。

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