クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

高崎まつり見物  H-21-8-2

2009-08-02 20:44:04 | 伝説・史跡探訪
小雨の降る中、散歩がてらに「高崎まつり」の見物に出かけた。
主会場の広場には既に大勢の見物客、テント張りの屋台の店も密集し
多くのお客を集めている。




中央舞台では子供向けのアトラクション。


今年で35回というが市民の一人としてその経過を少々調べてみた。

明治維新までの高崎の最大の祭りは一月の頼政神社祭礼であつたらしい。
頼政って誰かといえば、似仁王と共に平家討伐の軍を起すも武運つたなく
1180年に宇治・平等院で討ち死にした源三位の事。武人にして歌人、
鵺退治でも有名な頼政が何故に高崎と縁があるのか?
そこに登場するのが大河内氏出身の高崎藩主・松平右京こと輝貞殿。
輝貞の在任中にその祖先たる頼政を祭る神社を建設したのだ。
大河内氏は頼政の猶子を祖としており、12代目の正綱の時、松平に養子に
入った。この正綱の子が知恵伊豆・信綱、その弟・正信の孫が輝貞という
関係である。
明治に入つて大河内家の東京転居によって神社の祭礼は廃れ、替わったのが
小正月のドンドン焼きとも言われた道祖神祭りに道祖神屋台。
だがこれも戦時下では衰退してゆく。しかし、大正・昭和の即位式の祝いなどの
記念行事には道祖神屋台や山車が出るようになり祭りには山車や神輿の
感覚が定着していく。
戦後は昭和23年頃から八坂神社(現・高崎神社)の祭礼を中心とした商業的
目的の祭礼や昭和29年からの花火大会のような観光目的のものが続く。
そして五年毎に実施されていた市の記念行事で昭和30年の五か村
合併記念から「高崎まつり」の名が使われる。

こうした市の記念行事としての祭りは勿論、
行政主導であり、此れに対して「市民手造りの祭り」を目指したのが
「高崎ふるさと祭り」であり第一回は市制75周年に当る昭和50年。
そして、ふるさと祭りが10回経過した昭和60年、市制85年を期に
市が再び祭りに参画して名称は又もや「高崎まつり」、だが第一回ではなく
「ふるさと祭り」を継承して「第11回高崎まつり」で市民が参加して
皆が楽しむ祭りの性格を強く打ち出す。第13回からは市の予算付き。
そして今年が35回目。
但し、今や広大になつた高崎市なので旧郡部から見ると、山車や神輿の関係で
「これはマチの祭り」との声もある故に出来るだけ誰でも参加できる
イベントにするべく関係者は腐心している。

(閑話休題)

祭り広場から最初に出るのは「創作だるま神輿」、製作方法に制限無しで
誰でも参加できる祭りの象徴。その幾つかを。








その後を追うように各町の神輿。









南からは山車が続々と街中に入ってくるが雨よけシートで大苦戦。











広場には「頼政太鼓」の面々も。第三回の時、祭りの拠点町内としての
基幹的なものをとの要望で頼政囃子が作曲されて始まったもの。



各地のイベントで大活躍だがニューイヤー駅伝の応援名物として全国版。
太鼓の面には頼政の退治したという故事によつて鵺が描かれ、此れを
叩いて世に蔓延る悪を抑えるとの願いを込めているのだとか。
祭りの混雑は夕方まで続いていた。

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