小幡に戻って歴史民俗資料館先の「小幡」信号を左折して
「物産センター」の道へ(14.40)。
直ぐに善慶寺信号を左折して富岡のサファリパーク方面に向かう。
間も無く「善慶寺原」信号の四つ角にハッキリした道標が見えたので
それに従って再び左折、後は分岐毎にある案内板に導かれる。途中に
あと2.5kの道標を見てから
狭い道を0.8kで舗装が切れる。見たところ、其の先はガタガタの
山道なのでとても普通車は無理と判断し、傍の墓地脇に駐車(14.50)。
ここからは傾斜は少ないので歩き易いが山裾をぐるぐると引き回される
蛇行道が長い事。
漸く城址看板を発見、小公園風になっていて「御殿平」の看板もある。
昔の居館跡だろう。
道は更に上に続くし分岐も多い。城郭全体はかなり広いらしい。やがて
頂上への入り口看板、
少しの急登を登るとやや広場風のところに
休憩ベンチが置かれ、其の先には意外にも赤鳥居。
最後の小山を一登りで「本丸跡」(15.13)、
やや広い場所であるがこの城のスケールは大きいと聞いているので、
あちこちの峰に城砦が別れているのかもしれない。木製のお宮が三基。
由来記の看板もある。
肝心の三角点が見付らない。実は出掛けにうっかりして近くの違う
三角点・戦場575mをインプットする失敗を犯しているので、
ナビを使っての探索ができない。ウロウロ探しているうちに突然、
小雨が降ってきたので慌てて帰路につく。後で調べたらお宮の位置は
東南の端で三角点は北の端にあったらしい。
因みに点名・「城」428.4m。残念だが四等だからまあ我慢
しよう。後日機会があったら探して見る。
長い下りを殆ど小走りで車に帰り(15.39)、福嶋から下黒岩を
経て帰宅。
(小幡氏のあれこれ)
南北朝以降の西上州には伝統的豪族も無く中小の国人層の地域であり
上杉の衰退と共に数流に分裂。国峰・小幡は上杉から離れて北條騎下
となり憲政の逃げこんだ平井城攻めに北條軍先駆けとなり「小幡尾張守
不忠」と憲政の記録に残されてしまった。1553年、憲重・信実親子
は長野業政によって居城を追出されるという御灸を据えられ、城主は
一族の景純に代わる事件があるが、これは北條氏康の甘楽強奪作戦で
小幡勢分断作戦に乗せられたもの。
1561年、川中島四回目の大決戦の後、信玄が国峰を奪還して
信実は城主に復帰、数年で箕輪城を最後に尽く武田の支配下になる。
小幡赤武者と謳われるのはこの頃からで武田の中核として転戦し
武田二十四将に名を連ねる。
信玄の死後、いよいよ1575年の設楽ヶ原決戦。信実は「信真」と
1回目の改名し奮戦するも武田は惨敗。
其の7年後、勝頼は虐殺されるが、織田信忠の好意で織田軍に編入して
「信貞」と二回目の改名。変遷目まぐるしく信長死後の滝川一益も
北條に敗れ退散。
小幡は北条に属し「信定」と三回目の改名。小田原攻めでは小田原に
駐留していたが留守城を利家・景勝の北陸勢に襲われ国峰城は落城。
城主代理の十二歳の弟・信秀は逃れて天引の「伝州和尚」に匿われ、
後に奥平信昌の尽力で徳川に出仕する。
但し、十二歳とは「安中市史」の記載であるが、信貞は小田原戦に
信秀の子の直之を養子にして伴っているから一寸辻褄が合わない。
小幡は一時期奥平氏の支配下であったが1615年、織田信雄が
入封する。
尚、関連諸資料については甘楽町歴史民俗資料館にご指導を戴いた。
「北甘楽郡史・小幡町の項」
「…・お菊の死より小幡家の不幸相踵ぎ、信貞は小田原落城の時、秀吉から
切腹を命ぜられ、弟・信氏は信州神原に戦死し、同尚高は長篠に戦死、同昌定
従兄弟・盛次・盛秀何れも三方ヶ原・天目山・小諸等において戦死せり。
小幡家では怨霊を慰むるため、菊と母・姉妹・姪五人を大姉にまつり宝積寺に
位牌を立てる。…・」
と、信貞は小田原で切腹とあるが、どうも違う説があり其方が本当ら
しく感ずる。それは「上野国郡村誌・廃城略説」である。以下に引用
させてもらう。
「…・永禄3年図書卒ニ業政ト謀ヲ合シテ重定(憲重の事)ヲ追ウ。
重定難ヲ辟テ甲州ニ奔ル。…後3年信玄既に箕輪ヲ取テ重定ヲ此城国峰
ニ復ス。
重定ノ子信真(信貞の事)ニ至リ、天正ノ末猶子直之ト入テ小田原ヲ守リ
弟信秀ヲシテ此城ヲ守ラシム。弟播磨守(昌高?)乱ヲ作シテ城ヲ攻ム。
信秀乱兵ノ中ニ死ス。夫人宝積寺ニテ自刃。小田原ノ役ニ利家ノ武将
藤田信吉ニ攻メ陥ラル。…小田原ノ陥ニオイテ直之及ビ従者ト信州に匿ル。
後ニ家康其武勇ヲ聞キテ将ニ用イントス。信貞辞シテ就カス。直之ヲ薦メテ
老ス。…・」
此れに拠れば、信貞と養子の直之は小田原戦を生き延びていた事になるし、
留守居役の信秀は小田原戦に参ずる北陸勢に殺されたのではなく、其の前に
内紛で死んでいた事になる。北陸勢にやられたのは城主の留守に叛乱した
弟播磨守だった。では伝州和尚の話しは唯の伝説かな?
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直ぐに善慶寺信号を左折して富岡のサファリパーク方面に向かう。
間も無く「善慶寺原」信号の四つ角にハッキリした道標が見えたので
それに従って再び左折、後は分岐毎にある案内板に導かれる。途中に
あと2.5kの道標を見てから
狭い道を0.8kで舗装が切れる。見たところ、其の先はガタガタの
山道なのでとても普通車は無理と判断し、傍の墓地脇に駐車(14.50)。
ここからは傾斜は少ないので歩き易いが山裾をぐるぐると引き回される
蛇行道が長い事。
漸く城址看板を発見、小公園風になっていて「御殿平」の看板もある。
昔の居館跡だろう。
道は更に上に続くし分岐も多い。城郭全体はかなり広いらしい。やがて
頂上への入り口看板、
少しの急登を登るとやや広場風のところに
休憩ベンチが置かれ、其の先には意外にも赤鳥居。
最後の小山を一登りで「本丸跡」(15.13)、
やや広い場所であるがこの城のスケールは大きいと聞いているので、
あちこちの峰に城砦が別れているのかもしれない。木製のお宮が三基。
由来記の看板もある。
肝心の三角点が見付らない。実は出掛けにうっかりして近くの違う
三角点・戦場575mをインプットする失敗を犯しているので、
ナビを使っての探索ができない。ウロウロ探しているうちに突然、
小雨が降ってきたので慌てて帰路につく。後で調べたらお宮の位置は
東南の端で三角点は北の端にあったらしい。
因みに点名・「城」428.4m。残念だが四等だからまあ我慢
しよう。後日機会があったら探して見る。
長い下りを殆ど小走りで車に帰り(15.39)、福嶋から下黒岩を
経て帰宅。
(小幡氏のあれこれ)
南北朝以降の西上州には伝統的豪族も無く中小の国人層の地域であり
上杉の衰退と共に数流に分裂。国峰・小幡は上杉から離れて北條騎下
となり憲政の逃げこんだ平井城攻めに北條軍先駆けとなり「小幡尾張守
不忠」と憲政の記録に残されてしまった。1553年、憲重・信実親子
は長野業政によって居城を追出されるという御灸を据えられ、城主は
一族の景純に代わる事件があるが、これは北條氏康の甘楽強奪作戦で
小幡勢分断作戦に乗せられたもの。
1561年、川中島四回目の大決戦の後、信玄が国峰を奪還して
信実は城主に復帰、数年で箕輪城を最後に尽く武田の支配下になる。
小幡赤武者と謳われるのはこの頃からで武田の中核として転戦し
武田二十四将に名を連ねる。
信玄の死後、いよいよ1575年の設楽ヶ原決戦。信実は「信真」と
1回目の改名し奮戦するも武田は惨敗。
其の7年後、勝頼は虐殺されるが、織田信忠の好意で織田軍に編入して
「信貞」と二回目の改名。変遷目まぐるしく信長死後の滝川一益も
北條に敗れ退散。
小幡は北条に属し「信定」と三回目の改名。小田原攻めでは小田原に
駐留していたが留守城を利家・景勝の北陸勢に襲われ国峰城は落城。
城主代理の十二歳の弟・信秀は逃れて天引の「伝州和尚」に匿われ、
後に奥平信昌の尽力で徳川に出仕する。
但し、十二歳とは「安中市史」の記載であるが、信貞は小田原戦に
信秀の子の直之を養子にして伴っているから一寸辻褄が合わない。
小幡は一時期奥平氏の支配下であったが1615年、織田信雄が
入封する。
尚、関連諸資料については甘楽町歴史民俗資料館にご指導を戴いた。
「北甘楽郡史・小幡町の項」
「…・お菊の死より小幡家の不幸相踵ぎ、信貞は小田原落城の時、秀吉から
切腹を命ぜられ、弟・信氏は信州神原に戦死し、同尚高は長篠に戦死、同昌定
従兄弟・盛次・盛秀何れも三方ヶ原・天目山・小諸等において戦死せり。
小幡家では怨霊を慰むるため、菊と母・姉妹・姪五人を大姉にまつり宝積寺に
位牌を立てる。…・」
と、信貞は小田原で切腹とあるが、どうも違う説があり其方が本当ら
しく感ずる。それは「上野国郡村誌・廃城略説」である。以下に引用
させてもらう。
「…・永禄3年図書卒ニ業政ト謀ヲ合シテ重定(憲重の事)ヲ追ウ。
重定難ヲ辟テ甲州ニ奔ル。…後3年信玄既に箕輪ヲ取テ重定ヲ此城国峰
ニ復ス。
重定ノ子信真(信貞の事)ニ至リ、天正ノ末猶子直之ト入テ小田原ヲ守リ
弟信秀ヲシテ此城ヲ守ラシム。弟播磨守(昌高?)乱ヲ作シテ城ヲ攻ム。
信秀乱兵ノ中ニ死ス。夫人宝積寺ニテ自刃。小田原ノ役ニ利家ノ武将
藤田信吉ニ攻メ陥ラル。…小田原ノ陥ニオイテ直之及ビ従者ト信州に匿ル。
後ニ家康其武勇ヲ聞キテ将ニ用イントス。信貞辞シテ就カス。直之ヲ薦メテ
老ス。…・」
此れに拠れば、信貞と養子の直之は小田原戦を生き延びていた事になるし、
留守居役の信秀は小田原戦に参ずる北陸勢に殺されたのではなく、其の前に
内紛で死んでいた事になる。北陸勢にやられたのは城主の留守に叛乱した
弟播磨守だった。では伝州和尚の話しは唯の伝説かな?
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