クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

第九回 箕輪城まつり H-23-10-30

2011-10-31 16:35:00 | 伝説・史跡探訪
今年のお祭り追っかけの最後は10/30の箕郷城まつり、生憎の曇天で今にも
降り出しそうな空模様を心配しながらも雨具持参で箕郷町へ。
何時も駐車場所の選択が悩みの種だが今回は中央図書館が移転休館の時、時々
利用していた箕郷図書館。
出陣式を行う箕郷支所までぶらぶらと歩くが、大勢がどっと詰め掛けている気配は
全く無くやや拍子抜け。
支所に隣接する箕郷公民館で当日のプログラムや宣伝ポスターを受領。



定刻になると出場者が集合するが何時もと違って北側を頭にしたので写真が逆光に
なりやや不満。
撮れた出場チームを幾つか。

全チーム集合



「えすびっく・なでしこ隊」、「えすびっく」は地元企業でスポンサーらしく
4チームも参加していた。





「四区ドリーム隊」、どの辺の地区かは知らないが多分、パレードコースの沿道かな。





「中善地盆踊り保存会」、法螺貝を吹く女性もこのグループらしい。いや、
その前の組か?





「箕郷御嶽教講社」、鎮魂祭で主役。



「蟹沢梅祭り実行委員会」、梅祭りは箕郷の春の風物詩。



「群馬甲冑愛好会」、各種イベントにひっぱりだこ、先日も鎌倉街道武者行列にも
出場していたグループ。★群馬甲冑愛好会連絡先 会長・加藤季彦 027-353-0447



「みさと弓道愛好会」、鎮魂祭で「和弓礼射」の実演をする。



「えすびっく・青鬼隊」、赤鬼隊と共に鉄砲隊の模擬発射で沿道を沸かす。



「えすぴっく忍者隊」と「武田武川衆」
忍者隊は子供主体で模擬合戦では大奮闘、武川衆とは甲斐の辺境武士団で戦国期には
武田に臣従していたし、この中に柳沢吉保の祖父・柳沢信俊の名がある。
又、武田の鉄砲隊を養成する時、武川衆からも選抜されたとの記録もあるようだ。





「高崎市消防団箕郷方面隊」



「北条氏邦隊」
寄居・鉢形城からの客演。鉢形城祭りは既に今年で50回、箕郷祭りの先生格。
鉢形城は1590年の北条滅亡の年、小田原に攻め上る前田勢に対して決戦を
挑んだことで有名だが、群馬の地では信長の滅んだ1582年に滝川一益と神流川の
合戦をやっているので縁は深い。居合据物切りの演技や模擬大砲を操作した
鉢形城三つ鱗隊もこの中に居た筈。





「軍配らーめん隊」
どうも初顔らしく爺イも始めてだが、玉村の軍配山近くのグループらしい。
軍配山といえば玉村の「御幣山古墳」の事で神流川合戦の時、一益がここに
本陣を置いたという伝説によって軍配山の名が付いた。



さて、一巡しているうちに長いセレモニーのご挨拶も終わったようでいよいよ
出発。合図はこの模擬大砲。近くにいたので最初の一発目は手がブレた。



MVI_2233.AVI 模擬大砲


例によって先頭は「第四区育成会」で最初の休憩地点の箕郷小学校に向かう。



道中を賑わして観客から拍手喝なのは「えすぴっく青鬼隊」の模擬鉄砲と



甲冑愛好会のエイエイオー。



MVI_2254.AVI 武者行列


休憩地でも育成会の大人たちが太鼓の演奏は絶やさない。





再スタートした隊列はゆっくりと山手に向かい、山道に入る前で隊列を組みなおす。



又、模擬大砲が放たれて三の丸・二の丸を経て本丸へ出発。模擬大砲はトラックで
二の丸へ。



本丸会場に着いたら既にアトラクションは生原北野神社の獅子舞が終わって
十二階松くづし扇子踊り移っていたが、パラパラと小雨模様。
何とかテントの下に潜り込んで隙間を見つけては前に進み、遂に最前列。

鉢形城三鱗会による居合いの実演が凄かった。
三鱗会は400年前、寄居にあった関東屈指の名城・鉢形城兵士の末裔が結成した組織で、
祭りは先祖の霊を鎮めることと、次世代へ「史実」を継承することを目的に
実施されているとの事。ここで史実とは天正18年(1590)に起こった
鉢形城攻防戦を指し、この時鉢形城守りの主力部隊として活躍した
「寄居十六騎隊」に扮し、毎年凛々しい甲冑姿で各地の祭りに臨んでいる。



MVI_2282.AVI 居合い演技


アトラクションが終わると13時までの休憩、こちらも適当に腹ごしらえ。
やがて出場者は御前曲輪へ集合のアナウンスがあったのでこちらも釣られて移動。
そこではディレクターさんの指導の下に合戦や一騎打ちのリハーサル。



奥の方に甲冑愛好会が纏まっていたので各人の写真。













元に戻って練習を終えた右・武田勝頼役と左・藤井豊後守役。共に風格十分。



真田信綱役。上泉伊勢守と一騎打ちをやる予定。信綱は真田幸隆の嫡男だが
長篠の戦いで戦死、弟に信之・幸村の父親となる昌幸がいる。



後に剣聖と言われる上泉伊勢守役。



定刻になると箕郷弓道愛好会による「和弓礼射」。
武者系に対する礼射系は儀礼・儀式的な要素が加味されつつ発展した系統で、
事実上小笠原流系統をさすとの解説を読んだことがある。







全日本弓道連盟の定めた射法八節というものを学んでいると思うので
じっくりと観たが大体感じが掴めた様な気がする。

射法八節とは的に向かって両足を踏み開く動作の「足踏み」。
両脚の上に上体を安静におく動作・構えの「 胴造り」。
矢を番えて弓を引く前に行う準備動作の「弓構え」。
弓矢を持った両拳を上に持ち上げる動作の 「打起し」。
弓を押し弦を引いて、両拳を左右に開きながら引き下ろす動作の「引分け」。
矢は的を狙っている状態の「会」。
矢を放つ、あるいは放たれることの「離れ」。
矢が放たれた後の姿勢の「残心」。

MVI_2301.AVI 和弓礼射


セレモニーや鎮魂祭が終了すると史実を脱した架空のシナリオという断りが入って
攻防戦が開始された。

長野業盛が着到状を読み上げる。つまり、長野勢は勢ぞろいしたという事。



伝令が飛び込んで既に武田の先鋒部隊が箕輪に接近したことを告げる。



業政が出撃を指示、(武田勝頼と藤井豊後守の一騎打ちは永禄九年だから業政は
永禄四年に病死しているので一寸無理)全軍が抜刀して気勢を上げる。



攻防戦は赤の長野勢、ブルーの武田勢に別れて三回ぐらい激突。かなりの激しさ。



MVI_2327.AVI 模擬合戦


戦闘の合い間に武田勝頼と藤井豊後守の一騎打ち
「去る永禄六年(実際は九年)、上州箕輪、松山にて四郎殿十八歳の時初陣に、
長野が内にて覚ある藤井豊後、物見に出でて帰るを追い懸け、組み討ちになさるる。
其の儀御屋形信玄公へ深く隠し申し候。飯富兵部殿見給ひて、我等に腹を切らせんと
御叱り候事」 (『甲陽軍鑑』品四〇より)からなんだろう

がこれに「信玄は「聊爾者りょうじ者」と言って大将たる者の軽はずみを厳しく
叱責した」が加わるので勝頼を未熟として貶める甲陽軍鑑のでっち上げとの説もある。
大体、義信謀反は永禄八年に発覚しているから飯富兵部はこの時蟄居中。



上泉伊勢守と真田信綱の一騎打ち。



最後のもみ合いで長野勢が押し捲り、目出度く長野勢の勝ち戦。
中央で勝どきを上げて全て終了。



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