昨日の疲れも残っているし、ゴルフコンペも近いので無理をせず
軽くハイキング。行き先は榛東村の「吾妻山」。ここにはH-17-1に
標識を付けに行って以来の訪問。実はここに付けた爺イの標識は既に
何処かに飛ばされてしまい、無くなっていると「楚巒山楽会」さんから
連絡を貰っており、今は「山楽会」設置のものがある筈。
自衛隊駐屯地前を通過して旧榛名カントリーへの林道へ。やがて
「新井盗人越線」の看板。何と読むかは知らないが、新井とは自衛隊辺の
地名だし、「越」を「こえ」と読むのなら「越」は時々「峠」と同義に
使われる場合もあるので、昔の峠名か或いは山間部に「盗人」という
字名でもあるのかな?尤もこの林道名はゴルフ場前までで、その先は
「林道・上の原線」である。
ここから見る吾妻山は予想より大きくて一寸散歩と言う程度ではなさそう。
兎に角、富士見峠の駐車場に車をとめる。
この峠は群馬の峠の中でも榛名の九峠の中に入っているから、通称ではない。
林道左側に「伊香保森林公園」の道標があるが、
そこから小さい突起を登ると展望台風の場所があり、前橋・高崎の市街地が
良く見え、中でも県庁が目立つ。
ここからは前橋の方がずっと近くに感ずるが、実際はどうなんだろう。
展望台から戻って掲額のない鳥居を潜って登山開始。
ここは標高700mなので標高差は130m、直線距離は400mであるが
蛇行が多いので五割増しかな。
どうやら林道沿いに小尾根を登っているらしい。
やがて石宮の前に来るがこれも無銘。そして東屋があり、その裏に遊歩道
の案内板。
このコースは案内道標が周到に設置されているし、
登りは木段が作られているので爺イ得意の藪コギとは一寸違う。今日は周回を
するものの取り敢えずは南ルートで楽を狙う。一旦登り上げてから右旋回して
沢なのか、窪と言うのか下降して道標で登りの仕切り直し。
今度は木段道が南に回りながら鞍部へ。山頂へは右手に曲がるが
左にはもっと高度のある稜線が続いている。南に進んで小ピークを一つ
クリヤしたその先に狭い頂上。ここは四等三角点。
やはり爺イの標識は括り付けの針金だけ残して見付らない。下の写真の
ものがあったはずなのに。
樹幹に山楽会のもの発見。無残にもシールの中に水が染み込んで文字の
一部が消えている。完全な密閉形なのにと思って良く観察すると、水は
どうやら取りつけ金具のところから侵入したらしい。道具も持たない軽装
なので修復が出来ずに残念。
HPを見ると、もとの形はこんなに良かったのに。
鞍部にもどってから、周回のため北面のコブを登り始める。どこがピークか
分からないほどアップダウンを繰り返して標識の場所。
周回はここを左折して直ぐ右の木段を降りるのであるが勿体無いので
直進して稜線を辿ってみた。やや荒れ気味で稜線の真中に大岩が多くて
乗り越したり迂回したり大忙し。それも長くは続かない。どうにもこうにも
前進不能となる。特に下地が榛名特有の軽石粒になってから足元が怪しく
なって無理せずに撤退して標識から正規の周回遊歩道へ。
此方は南コースほどは歩かれていないらしいし、林の中の木段は
所々で腐敗して無くなっている。それでも何とか林道にぶつかったので、
林道歩きに切り換え。
山手を注意しながら下ると遊歩道への入り口は他に2箇所もあった。
12.23分スタートで帰着は13.50。
ご来訪のついでに下のバナーをポチッと。
軽くハイキング。行き先は榛東村の「吾妻山」。ここにはH-17-1に
標識を付けに行って以来の訪問。実はここに付けた爺イの標識は既に
何処かに飛ばされてしまい、無くなっていると「楚巒山楽会」さんから
連絡を貰っており、今は「山楽会」設置のものがある筈。
自衛隊駐屯地前を通過して旧榛名カントリーへの林道へ。やがて
「新井盗人越線」の看板。何と読むかは知らないが、新井とは自衛隊辺の
地名だし、「越」を「こえ」と読むのなら「越」は時々「峠」と同義に
使われる場合もあるので、昔の峠名か或いは山間部に「盗人」という
字名でもあるのかな?尤もこの林道名はゴルフ場前までで、その先は
「林道・上の原線」である。
ここから見る吾妻山は予想より大きくて一寸散歩と言う程度ではなさそう。
兎に角、富士見峠の駐車場に車をとめる。
この峠は群馬の峠の中でも榛名の九峠の中に入っているから、通称ではない。
林道左側に「伊香保森林公園」の道標があるが、
そこから小さい突起を登ると展望台風の場所があり、前橋・高崎の市街地が
良く見え、中でも県庁が目立つ。
ここからは前橋の方がずっと近くに感ずるが、実際はどうなんだろう。
展望台から戻って掲額のない鳥居を潜って登山開始。
ここは標高700mなので標高差は130m、直線距離は400mであるが
蛇行が多いので五割増しかな。
どうやら林道沿いに小尾根を登っているらしい。
やがて石宮の前に来るがこれも無銘。そして東屋があり、その裏に遊歩道
の案内板。
このコースは案内道標が周到に設置されているし、
登りは木段が作られているので爺イ得意の藪コギとは一寸違う。今日は周回を
するものの取り敢えずは南ルートで楽を狙う。一旦登り上げてから右旋回して
沢なのか、窪と言うのか下降して道標で登りの仕切り直し。
今度は木段道が南に回りながら鞍部へ。山頂へは右手に曲がるが
左にはもっと高度のある稜線が続いている。南に進んで小ピークを一つ
クリヤしたその先に狭い頂上。ここは四等三角点。
やはり爺イの標識は括り付けの針金だけ残して見付らない。下の写真の
ものがあったはずなのに。
樹幹に山楽会のもの発見。無残にもシールの中に水が染み込んで文字の
一部が消えている。完全な密閉形なのにと思って良く観察すると、水は
どうやら取りつけ金具のところから侵入したらしい。道具も持たない軽装
なので修復が出来ずに残念。
HPを見ると、もとの形はこんなに良かったのに。
鞍部にもどってから、周回のため北面のコブを登り始める。どこがピークか
分からないほどアップダウンを繰り返して標識の場所。
周回はここを左折して直ぐ右の木段を降りるのであるが勿体無いので
直進して稜線を辿ってみた。やや荒れ気味で稜線の真中に大岩が多くて
乗り越したり迂回したり大忙し。それも長くは続かない。どうにもこうにも
前進不能となる。特に下地が榛名特有の軽石粒になってから足元が怪しく
なって無理せずに撤退して標識から正規の周回遊歩道へ。
此方は南コースほどは歩かれていないらしいし、林の中の木段は
所々で腐敗して無くなっている。それでも何とか林道にぶつかったので、
林道歩きに切り換え。
山手を注意しながら下ると遊歩道への入り口は他に2箇所もあった。
12.23分スタートで帰着は13.50。
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近々新しいものを取り付けにいこうと思います。
中の水分は未だ抜けていません。
取りつけフックの隙間から入ったものと
思われます。
石宮は吾妻神社だと思います。
上野國神名帳記載神社とされ、古い神社とされます。
ご教示有難う御座いました。石の鳥居に掲額は無いし、榛東村資料にもリストアップされていなかったので不明で
片付けてしまっていました。
HPを拝見し、専門家で居られるので吃驚です。小生も歴史探訪を時々やるのでその際の参考にさせていただきます。
富士見峠の石宮についてですが、榛名東麓の吾妻神社ではないと思います。
現在の富士見峠に祀られている石宮や鳥居は大変に新しいもので、ワタシが子どもの頃は、あれだけのものはありませんでした。(現在石宮の中には古い石像などもありますが、由来については不勉強でわかりません。)
かつてあった吾妻神社は、現在は麓の現榛東村山子田の常将神社に合祀されています(群馬郡誌によると明治40年のことだそうです。) そして常将神社の社務所の建物の中に、木製の宮が、ひっそりと祀られています。(実際は、埃をかぶって、ただ保管されているだけのような状態ですが・・・。)
かつて神社のあった跡には「日本武尊」という銘の石碑が建てられたと祖母から聞いています。(ちなみにその銘文は祖母の父親の筆によるとのことでした。)
石碑自体は、現在もあるだろうと思いますが、ワタシは数十年前(中学生の頃)に1回見ただけです。
さて、肝心のその場所なのですが、貴兄が三角点探訪で訪れた霞山CC内の三角点(「広場場」という命名にはちょっと違和感を覚えますが)の近くのピークがその場所のはずです。
今でこそ、テニスコート(既に廃業)やゴルフ場ができてしまったので、そちらからあっという間に行けてしまうのですが、かつては、地形図上に記されている三角点付近の破線の道が神社の参道で、今でも入り口に「一の鳥居」があります。(旧伊香保街道からゴルフ場への曲がった所にあります。)
この参道は、吾妻山の頂上を指して真っ直ぐ伸びていて、まさに「吾妻様(山)」に登っていくようになっています。参道の途中には、倒壊してしまった二の鳥居の石もあったはずですが、今はどうなっているか・・・。
私自身も、近々確かめなければならないなと思いました。
北西に真っ直ぐの徒歩道の破線がありますね。
何時か辿ってみたいと思います。
真っ直ぐすぎるのが心配ですが。
yahooの地図では少し北から同じ方向に
少し曲がりながらの道が途中まで付いています。
三角点名の広馬場は確かに距離が離れすぎています。三角点位置は大字山子田で昔の山子田村
、相馬村から発した広馬場とは繋がりが無いのに不思議ですが、国土院は地元の意見を入れて
と言いますので今となっては経緯不明?
富士見峠の石宮に付き榛東村教育委員会から
連絡がありました。
これは矢張り吾妻神社ではなく「中十二社」だそうです。
この近辺に三社ある筈でその一つが先日探訪した「堂ノ入遺跡」の途中にあった「北十二」。丁度、村指定の巨木が四本ある所。
もう一つはもっと山奥との事ですが、管轄が
違う(多分伊香保か吉岡)ので分からないとの事。
霞山カントリーの入り口から並んでいる三本の
鳥居は村指定史跡には入っていませんが
破損などを防ぐために教育委員会の標柱を
たてたのだと。
明治40年に常将神社に合併されたのは確かに
この鳥居の吾妻神社ですが合祀後は放置され
ゴルフ場建設でその痕跡も失われたと。
もう一人、耳飾館の史跡に詳しい人が
回答を呉れるはず。
ここでは「十二様」について。
そういえば富士見峠で「中十二」という石碑をみた覚えがあります。
そもそも「十二様」とは「大山祇神」と関連があり山へ入る人々に信仰されたもので、山麓の山の入り口によく祀られていたらしいです。実際に、榛東辺りでは人家近くにもたくさん現存して、それほど珍しいものではありません。
さて、榛東の教育委員会の方が言う「はるか山奥・管轄外」の「十二様」とは、もしかしたら林道湯の入出線を北から入ったところにあるもののことかも知れません。
船尾滝側から林道を数百メートル入った、切り通しの右カーブを曲がりきった右側の崖の下に「十二大神」「大山祇命」とそれぞれ彫られた質素な石碑が2基あります。
小野関三太夫氏の線彫りの石碑よりもずっと北側で、吉岡町域ですので、その点は、合致はしますが・・・。
でも「北十二」「中十二」ときたら、普通なら、もう一つは「南十二」ですよね。まして村外にあるなんて、変です。
実は「南十二」という祠が近くにあるのです。一の鳥居から舗装道路を登って、右側の旧テニスコートの直ぐ下の杉林の中、よくみれば車道からも見えます。
こちらの方が、しっかりした祠で「計3つ」というのには、合っているような気がするのです。
吾妻神社をはさんで、北十二と南十二はほぼ等距離離れています。「中」は少々距離がありますが、吾妻山への登山口ともいえる場所、改めて吾妻神社(あるいは山)と関わりのある「北・南・中」の「十二様」なんだと思いました。
教育委員会の方が、この「南十二」を「上記の(吉岡の)十二様」(あるいは他のもの)と勘違いされているのではないかなと思いました。
行きがかり上、撮りに行かなくては。