先日来、「盗人越」の事が気になって仕方が無かった。自衛隊演習地の
北側から富士見峠、榛名カントリーを抜けて伊香保森林公園に向う
林道を行き、「霞山カントリー」「榛名テニスリゾート」の看板前を
通過すると間も無く小公園風の場所。ここは榛東村の「創造の森」で
あるが、問題はここの路傍にある看板に「新井盗人越線」と標示して
ある事。一体、何と読むのか?どんな謂れがあるのか?インターネットで
いろいろと検索してみたが、何だろうと疑問を呈する記事ばかりで回答
らしきものは得られない。こうなると当然、詮索好きの爺イの出番。
ゴルフの合間を縫って少しずつ情報を集めた。協力して呉れたのは
榛東村・産業振興課と上毛新聞。以下はその成果。
先ず、何と読むのか?の疑問に付いては平成14年9月18日の上毛新聞の
記事見出しに仮名が振ってあったので解決。「ぬすっとごえ」とは余りに
ストレート。
但し、ここでは「盗人越峠」のことで林道としてではない。
では、その峠は何処にある?
榛東村発行の1/10000の都市計画図には「盗人越」の文字は
見当らないが国土地理院の1/25000地図の閲覧サービスを
見たらちゃんと下の写真の様に記載があった。この地図をそのまま
ブログに転載するのは本来、やってはいけないのだが
これを載せないと話が進まないので今回だけは勘弁してもらおう。
この位置は旧山小田村と旧長岡村の境界らしい。
問題の峠名の謂れに付いては、榛東村からの情報も上毛新聞記事も
確たる古文書がある訳でもなく伝承だったがそれらを総合すると
次ぎのようなもの。
(1)伊香保で盗みなどの違法行為を犯してもこの峠を越えて
榛東地区に逃げこめば追手から逃れる事が出来たので
その名が付いたという説。
(2)旧長岡村の上部に「博打穴」と言われる洞窟があり盛んに博打が
行なわれていた。取り締まりがあったときにこの峠を越えて逃亡
すれば管轄外となって逃げられたからという説。
(3)古来、この地域は地元民の下草刈りの入会地区であつたが、この峠
を境にして縄張り争いが絶えなかった。その抑止として境を越えて
下草を刈り取ると「盗人」扱いにされたと言う説。
等などのこと。どうも爺イには(3)が生活に密着しているので正解に
思えるのだが。
因みに、現榛東村の経緯を調べると、明治22年に新井村・山小田村・
長岡村が合併して「桃井村」が誕生、ぐっと下って昭和32年に旧相馬村・
広馬場を吸収、昭和34年に公募によって「榛東村」に改称。相馬村の
残りの「柏木沢」地区は箕郷に吸収されて相馬村は消滅している。
そして平成の大合併の仲間入りはせず、榛東村の侭。
余談として、上毛新聞が「地域総覧」でこの峠のことを取り上げた
切っ掛けは火災であったという。
平成14年の4月4日、上毛新聞に「自衛隊駐屯地の上で山林火災」
の一報が入った。幸いにして山道近くの下草を2ヘクタールほど焼失
しただけで大事には至らなかったが場所の問い合わせに対して村役場職員
の発した「ぬすっと」の言葉を聞いて面白い地名があるものだと
その由来を調べたのが始まりとか。爺イが看板を見て何だろうと思って
調べ始めたのと似ている。
爺イはこれらの伝承の中で「博打穴」に興味が沸き、振興課長さんから
大体の位置を聞き出し、コンペの明くる日、止せば良いのにその洞窟を
探しにのこのこと出かけた。
今日は153号線(水沢・足門線)経由、水沢・群馬線が何時の間にか
足門線、多分群馬町が高崎市に編入と成り「群馬町」の名が消えたから
だろう。左にハルナグラス、右に「地球屋」の所の林道を左に入る。
欅の大木のある「北十二」の鳥居、
「榛東村・北部貯水池」を経て1.2kで右手から「林道・湯入線」が
ぶつかる。この林道は船尾滝駐車場に繋がるもので途中に「千葉常将」が
自害したとの伝説のある「自害(ジゲエ)沢」があるとは聞くが
爺イは未だ確認していない。
そこから0.5kで北ヘ向った林道がヘアピンカーブで南向きに転向する
所に今度は荒れ果てた作業道、目の前には話にあるような焼失の跡らしき
植樹場所。入り口には立ち入り危険のゲート。
標高676m N-36-27-35-2、E-138-56-31-4。
ここだと直感し路傍駐車して作業道に入る。すぐに堰堤のある小さな沢、
ここで作業道は早くも途切れるが水量も少ないのでそのまま横切って
尚前進すると、今度は本格的な大型の堰堤の沢、堰堤の上を渡って
対岸に。道無しの草叢を前進して前方の稜線を見上げる位置にくると、
左の崖の上に何やら岩窟が見えた。
急登の崖を棘を掻き分けて登るとやはり伝説の「博打穴」らしい。
歩測ではあるが、巾1.8m、奥行き4.2m、高さ2.0mほど。中で
記念写真。
周辺を探索したがここのほかには岩窟は無いので先ず間違いは無し。
帰途は林道を其の侭前進して0.9kで吾妻山登山口の「富士見峠」、
下って林道の道標をチェックしていたら「クタビレ爺さん?」と見知らぬ
人から声を掛けられた。名乗り合ったら何と「楚巒山楽会」さんだった。
仕事の帰りだとのこと。こんな偶然は実は二回目半、かつて
吉井の朝日岳南峰から南口に下山し掛けたら朝日北峰から南峰に向って
いた「牛伏山岳会」氏と林道の交叉点でばったり、面識は無かったが
お互いに相手が誰だか直ぐ分かった。
「半」とは中之条・青山山の帰途、世話になった熊撃ち名人の経営する
中華料理屋に寄ったとき、タッチの差で「柴犬」さんが帰った後だった。
爺イが苦戦撤退すると時々、要領を教えてくれる人だが未だ出会っては
いない。
新聞にはこの近辺には関東一円を見渡せる「八州高原」とか雰囲気が
良くて何時までも居たくなる「語らいの岩」等があるとされるが、
今のところ、その所在は知らない。後日の宿題。
ご来訪のついでに下のバナーをポチッと。
北側から富士見峠、榛名カントリーを抜けて伊香保森林公園に向う
林道を行き、「霞山カントリー」「榛名テニスリゾート」の看板前を
通過すると間も無く小公園風の場所。ここは榛東村の「創造の森」で
あるが、問題はここの路傍にある看板に「新井盗人越線」と標示して
ある事。一体、何と読むのか?どんな謂れがあるのか?インターネットで
いろいろと検索してみたが、何だろうと疑問を呈する記事ばかりで回答
らしきものは得られない。こうなると当然、詮索好きの爺イの出番。
ゴルフの合間を縫って少しずつ情報を集めた。協力して呉れたのは
榛東村・産業振興課と上毛新聞。以下はその成果。
先ず、何と読むのか?の疑問に付いては平成14年9月18日の上毛新聞の
記事見出しに仮名が振ってあったので解決。「ぬすっとごえ」とは余りに
ストレート。
但し、ここでは「盗人越峠」のことで林道としてではない。
では、その峠は何処にある?
榛東村発行の1/10000の都市計画図には「盗人越」の文字は
見当らないが国土地理院の1/25000地図の閲覧サービスを
見たらちゃんと下の写真の様に記載があった。この地図をそのまま
ブログに転載するのは本来、やってはいけないのだが
これを載せないと話が進まないので今回だけは勘弁してもらおう。
この位置は旧山小田村と旧長岡村の境界らしい。
問題の峠名の謂れに付いては、榛東村からの情報も上毛新聞記事も
確たる古文書がある訳でもなく伝承だったがそれらを総合すると
次ぎのようなもの。
(1)伊香保で盗みなどの違法行為を犯してもこの峠を越えて
榛東地区に逃げこめば追手から逃れる事が出来たので
その名が付いたという説。
(2)旧長岡村の上部に「博打穴」と言われる洞窟があり盛んに博打が
行なわれていた。取り締まりがあったときにこの峠を越えて逃亡
すれば管轄外となって逃げられたからという説。
(3)古来、この地域は地元民の下草刈りの入会地区であつたが、この峠
を境にして縄張り争いが絶えなかった。その抑止として境を越えて
下草を刈り取ると「盗人」扱いにされたと言う説。
等などのこと。どうも爺イには(3)が生活に密着しているので正解に
思えるのだが。
因みに、現榛東村の経緯を調べると、明治22年に新井村・山小田村・
長岡村が合併して「桃井村」が誕生、ぐっと下って昭和32年に旧相馬村・
広馬場を吸収、昭和34年に公募によって「榛東村」に改称。相馬村の
残りの「柏木沢」地区は箕郷に吸収されて相馬村は消滅している。
そして平成の大合併の仲間入りはせず、榛東村の侭。
余談として、上毛新聞が「地域総覧」でこの峠のことを取り上げた
切っ掛けは火災であったという。
平成14年の4月4日、上毛新聞に「自衛隊駐屯地の上で山林火災」
の一報が入った。幸いにして山道近くの下草を2ヘクタールほど焼失
しただけで大事には至らなかったが場所の問い合わせに対して村役場職員
の発した「ぬすっと」の言葉を聞いて面白い地名があるものだと
その由来を調べたのが始まりとか。爺イが看板を見て何だろうと思って
調べ始めたのと似ている。
爺イはこれらの伝承の中で「博打穴」に興味が沸き、振興課長さんから
大体の位置を聞き出し、コンペの明くる日、止せば良いのにその洞窟を
探しにのこのこと出かけた。
今日は153号線(水沢・足門線)経由、水沢・群馬線が何時の間にか
足門線、多分群馬町が高崎市に編入と成り「群馬町」の名が消えたから
だろう。左にハルナグラス、右に「地球屋」の所の林道を左に入る。
欅の大木のある「北十二」の鳥居、
「榛東村・北部貯水池」を経て1.2kで右手から「林道・湯入線」が
ぶつかる。この林道は船尾滝駐車場に繋がるもので途中に「千葉常将」が
自害したとの伝説のある「自害(ジゲエ)沢」があるとは聞くが
爺イは未だ確認していない。
そこから0.5kで北ヘ向った林道がヘアピンカーブで南向きに転向する
所に今度は荒れ果てた作業道、目の前には話にあるような焼失の跡らしき
植樹場所。入り口には立ち入り危険のゲート。
標高676m N-36-27-35-2、E-138-56-31-4。
ここだと直感し路傍駐車して作業道に入る。すぐに堰堤のある小さな沢、
ここで作業道は早くも途切れるが水量も少ないのでそのまま横切って
尚前進すると、今度は本格的な大型の堰堤の沢、堰堤の上を渡って
対岸に。道無しの草叢を前進して前方の稜線を見上げる位置にくると、
左の崖の上に何やら岩窟が見えた。
急登の崖を棘を掻き分けて登るとやはり伝説の「博打穴」らしい。
歩測ではあるが、巾1.8m、奥行き4.2m、高さ2.0mほど。中で
記念写真。
周辺を探索したがここのほかには岩窟は無いので先ず間違いは無し。
帰途は林道を其の侭前進して0.9kで吾妻山登山口の「富士見峠」、
下って林道の道標をチェックしていたら「クタビレ爺さん?」と見知らぬ
人から声を掛けられた。名乗り合ったら何と「楚巒山楽会」さんだった。
仕事の帰りだとのこと。こんな偶然は実は二回目半、かつて
吉井の朝日岳南峰から南口に下山し掛けたら朝日北峰から南峰に向って
いた「牛伏山岳会」氏と林道の交叉点でばったり、面識は無かったが
お互いに相手が誰だか直ぐ分かった。
「半」とは中之条・青山山の帰途、世話になった熊撃ち名人の経営する
中華料理屋に寄ったとき、タッチの差で「柴犬」さんが帰った後だった。
爺イが苦戦撤退すると時々、要領を教えてくれる人だが未だ出会っては
いない。
新聞にはこの近辺には関東一円を見渡せる「八州高原」とか雰囲気が
良くて何時までも居たくなる「語らいの岩」等があるとされるが、
今のところ、その所在は知らない。後日の宿題。
ご来訪のついでに下のバナーをポチッと。
仕事終わりではなく、仕事前でした。怖いおじいさんかと思っていましたが、ブログで見る写真よりお優しそうで、シャッターがきれる時、ニコッとされるとよいと思います。山名標を付け替えましたので、ご覧ください。またどこかの山でお会いできればと思います。
したらとは誰かにも言われた事があります。努力目標。
付けかえられた標識は爺イの
低山標識大集合に加えさせて
戴きます。今後とも宜しく。
と思ったら・・・
青空でした(笑)
たそがれ時を気にしながら、帰りに博打穴見てきました♪
おもったよりも狭かったです。入り口中央にマムシグサが1本、
奥にはウスバカゲロウの巣(アリ地獄)がたくさんありました。
かたらい岩はわかりませんねー
それに因んで博打穴も標識ぐらい付ける洒落っ気があつても
良いのに。
それはそうと、一昨日の突然の降雹には吃驚でしたが
今日は平地も不穏な大風。台風も2号発生と
聞くと何やら今年は荒れ模様。
明日は何とか大人しくなりそうなので
小野子山の「姉つつじ」が咲いているとの情報で
一寸高山村を訪問予定。
先月18日に、富士見峠から富士山と東京スカイツリーとおぼしき高塔が見えたので、そのことを愚妻に話したら「新年に富士山とスカイツリーを見たい」とのことで出かけました。
今日は雲の様子から富士もスカイツリーも見えないだろうとは思ったのですが、近隣の眺めだけでもとドライブしました。
案の定、富士山は姿を見せずでしたが、スカイツリー(と思しき)高塔は見えていました。
三脚で固定した双眼鏡でみると、途中の展望台らしき太い部分があり、またその下にたくさんのビル群が見えるので東京に間違いないであろうと推定しています。
今日のような眺めでも、目が慣れると肉眼でもその高塔が見えました。
さて、その帰路、盗人越を下りました。
今は舗装されていて、道幅こそ狭いので対向車でも来ようものなら、すれ違いに困るのですが、桃泉からのルートよりも楽な道になっていますね。以前、未舗装道の時に車の下腹をこすりながら走った時とは隔世の感があります。
伝説の「博打穴」とは知りませんでしたが、付近に「堂の入沢遺跡」があるというので、踏み入ってみたいと思っています。
(今日も林道の入り口に車が1台止まっていました。)
この遺跡は、柳澤寺縁起等に記されている平安時代の大寺であった「船尾山寺(旧柳澤寺)」の跡ともいわれている遺構だそうです。 といっても石組みが少々確認できるだけらしいですが・・・。
今では忘れ去られそうな榛名山麓の天狗伝説、九十九谷伝説等に関わる地域なので、是非訪れてみたいと思っています。
昨年夏には雨降り地蔵の情報でお世話になりました。千葉常将がらみで消失したといわれる
船尾山坊のことには興味があり過去に少し
探訪しています。
http://blog.goo.ne.jp/gooyamachuu/e/62434b34eb6b2ea717890dba1dbe6092
http://blog.goo.ne.jp/gooyamachuu/e/3417ff311d17ff9b6bc59b6207ac3ce5
が、旧寺跡の所在がハッキリしないし、榛東村
文化財リストに堂の入遺跡が入っていないので
未だ確認はしてません。
旧柳澤寺(船尾(山)寺)については、ずっと前から所在不明といわれていて、実在したなら「九十九谷」に近い地であろうと私的には想像していたのですが・・・・。
最近「榛東村誌」を紐解いてみたら「堂ノ入遺跡(昭和末期に調査したらしい)」と「水沢廃寺」の記述などがあり、「船尾寺の伝承」との関係は不明とされてはいますが、
こんな山中にある遺跡自体に興味もあったので、訪ねてみたい気持ちになった次第です。
多分、榛東村役場に問い合わせても、いつも専門的な人が対応してくれるとも限りませんので、自己の研鑽も必要かもしれません。
スカイツリー展望については、今日も富士見峠から見えて、ほぼ間違いないであろうと確信したのですが、帰路に標高を下げながら確認ししてみたら、我家(標高約265M)のベランダからでも、それらしい高塔の上部が見えることが確認できました。別に特に群馬の山の上からであるからこそ、のことではないようですね。
4月までの長期休館になっているので
箕郷図書館や足門の群馬図書館に度々いくので
その時に資料を探してみます。地元に近いので
何かの小冊子があるかも。
あまりにも、あっけない所でした。
林道湯の入線を終点(霞山CC側)から、徒歩で200~300Mほど入った両側杉林の所の左側です。
林道を進みすぎると、左にカーブして山側に向かって一応舗装された林道(行き止まり)が分岐していますが、それより手前です。(この分岐した林道も遺跡の上部を通っているので、こちらからも入れますが・・・)
遺構は、杉林に50メートル位入った所に高さ0.5メートルほどの石積が横に10数メートルほど露出しているだけですので、注意深く探さないと見つからないかもしれません。
見える遺構はそれだけです。
この遺跡については「榛東村誌」p146~152に発掘調査の様子と分析が詳しく記されていますので、そこを読まれてから訪ねた方がよろしいかと思います。
林道をさらに北へ1KM位進んだ高い切り通しの手前に、貴兄が探訪している「小野関三太夫」氏関連の「船尾山児育地蔵尊」が彫り込まれた石碑がありました。(こちらは標識があります)
自害沢も近くのようです。(どの沢だかはわかりませんでしたが・・・)
「山はこれから」さん
貴重な情報有難うございました。早速、今日の
午前中に現地に行って見てきました。
後刻、アップします。