![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/ec/d948a0fe9cffc9bae187684fd270a12f.jpg)
今年の大河ドラマの主役たち、浅井三姉妹の事を色々と詮索して
いたら某資料の末尾に自決した筈の淀殿についてこんなもの。
「薩摩に落ち延びた説と秋元長朝に助けられ、長朝の領地上野国
総社に落ち延びた説がある。秋元家の菩提寺・元景寺(現前橋市)に
彼女のものといわれる石塔がある」と。
永年高崎に住み、伝承好きと自認する爺イの戦国時代の興味はどうしても
仁政で名高い箕輪(今は高崎市)の長野勢、西上州への侵略を繰り返した信玄、
それに変わり身の素早い真田に集中していた。
厩橋・石倉を含めた東毛には疎く、近くの総社の辺も全く知らなかったので
この伝説は恥ずかしながら初耳。
慌てて秋元長朝殿をチェックしたら、この武将、地元では治水などで
地元を潤した初代?総社藩主として有名人だった。初代に?
を付けたのは記録上は諏訪家が初代で秋元家は1601から1633年
までの二代、以後は高崎藩に組み入れられ当時謹慎していた忠長の
小遣い料として安藤重長に与えられて廃藩。
さて、淀殿の墓と伝わるものは長朝が父親の景朝の菩提を
弔うために開いた総社の「元景寺」に在ると言うので早速訪問。
長朝本人の菩提寺は同じ総社町の「光厳寺」だか今日は目的が
違うのでパス。
高崎からR-17を東進し群馬大橋手前の「石倉三丁目」を左折して
R-105を北上。「大渡橋西詰」の丁字路を左折して総社方面へ。
直ぐ先の「総社」信号で右折してR-15、途中に光厳寺に行く信号があるが
直進して突き当りが目指す元景寺。この辺は総社城に吸収されたかつての
勝山城址と言われるがその痕跡は殆ど無いらしい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/b2/1436903a6a859e7f3ca1a610fedae5dc.jpg?random=40dffc457fd54830488cc00c6d938246)
寺手前のこの石柱の所の空き地に駐車して参道を歩く。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/0f/e63e58c19377a8faa5b1c5ce2163eff3.jpg?random=76916c3ca48701a554ab1c475fbfd40c)
やがて山門、豪華な構えだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/14/5d86b7f7bb0943d5ecb3b0e465113dd4.jpg?random=b1e1f5f9f25da20f40c704a0a75536f0)
早速、淀殿の墓と伝わるものがあるとの説明看板。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/ef/70bf0a802be35921c545a9004810b3ed.jpg?random=6641c791e51dd810026bd5f43647e8ec)
治水事業に絡んだ「羽階大権現」や史跡指定の薬師などの前を
通過して寒風が吹き付ける本堂裏の墓地へ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/c6/60c3f7ed00dd26763ee2c0b01debbd84.jpg?random=f0f56f61318a01936d372c909b54e1e0)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/d6/f4ab392386ba87f68960190b32932803.jpg?random=a0a6c91d572693a249efc953e6936e3b)
一番奥の利根川を見渡すところに墓所。正面は巨大な宝筐印塔。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/54/e152b23f3fa596406d8e85161c6a70c6.jpg?random=4595a07179ff29b0dbf59a530b64e5f9)
その左に長朝の父親・景朝の墓。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/95/2970ba67f37b115b0ea96b04b9a11145.jpg?random=cfc8abbacd8443eb96fbaab33c4abb72)
其れに相対して奥方・光厳院殿(春)の墓。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/01/752760e2c24db394833b9dacdd468440.jpg?random=c913b05bb4ff8553cf1116bd4ed11140)
石垣を外れた東にもう一つ。これが淀殿の墓との伝承。勿論、別名
の「お艶」の名で過ごしたことになっている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/b4/5b3d0182983c0e21de53b1e177d5feff.jpg?random=1baea8d16db66feb3ae4bdfecbea0213)
だが、はっきりと読み取れる戒名は「心窓院殿――」、ありゃ
これは景朝の側室ではないのかな? だが、伝承を楽しもうと
いう時にそう云うけち臭い詮索をしてはいかんな。
寛永7年(1630年)
墓地の裏からは榛名や赤城が遮るものも無く一望。風当たりが
強いわけだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/d5/81132070e060297498ee7d4486104fd2.jpg?random=f5599626f2cf0ea41917e68d0dd71430)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/44/cd1b403618d1b3b9bdd58987a9725c4a.jpg?random=4276bdebc9de637880bee1fcea70b494)
さて今度は淀殿のお艶(エン)様が投身したという場所が利根川対岸の
前橋公園にあると聞いて移動。
広い公園の中、目星を付けたボート池の近くの入り口。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/0e/c6db4f32b6a55f818b529d782f853c53.jpg?random=dd0e48fb7b5f6acd96f645bb03e95892)
強風のためか、人も疎らの池の縁を回ると目的のもの発見。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/03/a82b24fd12d8a5a6ec1626468dc53a0c.jpg?random=e88a4b41d6e0a718b2fea6d53666817f)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/35/c9711f66c6cb3281f5387a7062984ab3.jpg?random=b6ac798b99a5b289ff9cbac2ad5568a4)
お艶様没後330年を記念して昭和34年に建設とある。
昭和34年は1959年だからその330年前は1630年。
ここで吃驚、1630年はさっき寺で見た墓銘の寛永7年1630年
と合っている。
説明板から寺や石碑の伝説の説明をそのまま載せる。
元和元年(1615)大阪夏の陣、淀君は自決したのではなく、落城の
折り城から脱出、徳川方の秋元の陣に助けを求め、長朝が総社に
帰るとき淀君を籠に乗せて木曽から信濃を廻って支配地の
総社まで連れてきた。ここでは淀君とは呼べず「お艶(えん)様」と
呼んだと言われる。その後の淀君は、何不自由無く暮していたのだが、
過去の悲しい出来事が忘れられず、ついに岩から利根川の激流に
身を投げてしまったと云う。
元景寺の対岸にある敷島公園に、お艶(淀君)が身投げしたと云う岩に
観音像が建てられているーーーーと言う一席だ。
ブログ一当たりの制限字数が余ったので蛇足。
現在最も一般的に用いられる淀殿、過去に用いられた淀君の名は、同時代の
史料には一切見られず、「淀君」という呼称が広く普及して一般に定着
するのは、明治時代に坪内逍遥の戯曲『桐一葉』が上演された以降のことだそうだ。
「淀君」の呼称については、悪女、淫婦というイメージとともに
売春婦の呼称「辻君」などと結びつけて定着したと小和田哲男先生が主張して
いたが、「君」がすぐさま蔑称だと断定するのには疑問が残る。
彼女の呼称は本名を「浅井茶々」、朝廷より賜った名が「菊子」。
その後、昭和35年(1960年)に発表された井上靖の小説
『淀どの日記』以降、「淀殿」の使用が一般的となったらしくNHK大河ドラマ
でも昭和62年(1987年)に放送された『独眼竜政宗』を最後に「淀君」と
いう呼称は一切使われていないと云う。
また生存中には、居場所の変化に伴って淀の方、二の丸殿、西の丸殿などと
通称されたとのこと。
序にもう一つ眉唾の話。
大阪城落城の時、茶々の没年が49歳とする記録があるそうだ。
生年については、浅井家の記録である『浅井三代記』に茶々の誕生に関する
記述が全くないが近年では永禄12年(1569年)誕生説が有力になっている。
今年の大河ドラマでも脚本はこの線を採っている。
だが、永禄9年(1566年)とか永禄10年生まれの説も生きている。
各説の切っ掛けは江戸時代に書かれた『翁草』に、茶々が慶長20年(1615年)の
大坂の夏の陣で死亡した時49歳(逆算で1566年生まれ)だったと記され、母の市が
長政に嫁いだのが1567年であるため、市の連れ子で長政以前に嫁いだ時に
産まれたという説が生まれた。また市が信長の妹ではなく従姉妹とする
資料もあるため、茶々は信長と市の娘とする説すらある。
翁草(オキナグサ)とは 神沢貞幹が著した随筆作品。鎌倉時代から江戸初期まで
の歴史、伝説、異聞などを諸書から抜き書きし、著者の見聞をあわせて
記録したもの。 1772年(安永元)の発表。
随筆風の百科全書とも別称されるのは様々な書物を元に、内容別に分類抄出して
まとめているからで著者の神沢は京都奉行所与力。
で、この姉妹の生年は一人づつずらされている。おまけに弟が
いたらしい。浅井家男子、長政前妻の子・万福丸は小谷落城の後、
10歳で虐殺されているが、その時、乳飲み子だった末の弟・
万菊丸は逃れているそうだ。通説では乳飲み子は「江」になって
いるがどうも違うらしい。
杵築史談会発行による論文「生きていた浅井長政・お市の次男、
万菊丸」で証明されたそうである。そして熊本浅井家・杵築浅井家などが、
そのご子孫であることが明らかとなったと。
結論として落城1573年を基準とすると万菊丸・1573年生まれ
「江」・1571か1570年、「初」・1569年、「茶々」・1567か1566年。
つまり、万菊丸が歴史から抹殺された存在であることを利用して「江」の
生年を意識的に2-3歳のさば読みして万菊丸と摩り替えた。
だがその理由が面白い。
後に結婚する徳川秀忠が1579年生まれなので出来るだけ年上の
再々婚の「江」との年齢差を縮めて押し付け嫁の評判を避けたのだと。
時に1595年、押し付けたのは勿論「江」を養女としていた
既に半ば耄碌爺の秀吉。事実を捻じ曲げて史実にしてしまったのは
当然、徳川幕府の勝者の記録。
だから何なんだと云われても困る話だが。
まあ、最もすっきりする記述はこれかな?
ご来訪のついでに下のバナーをポチッと。
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いたら某資料の末尾に自決した筈の淀殿についてこんなもの。
「薩摩に落ち延びた説と秋元長朝に助けられ、長朝の領地上野国
総社に落ち延びた説がある。秋元家の菩提寺・元景寺(現前橋市)に
彼女のものといわれる石塔がある」と。
永年高崎に住み、伝承好きと自認する爺イの戦国時代の興味はどうしても
仁政で名高い箕輪(今は高崎市)の長野勢、西上州への侵略を繰り返した信玄、
それに変わり身の素早い真田に集中していた。
厩橋・石倉を含めた東毛には疎く、近くの総社の辺も全く知らなかったので
この伝説は恥ずかしながら初耳。
慌てて秋元長朝殿をチェックしたら、この武将、地元では治水などで
地元を潤した初代?総社藩主として有名人だった。初代に?
を付けたのは記録上は諏訪家が初代で秋元家は1601から1633年
までの二代、以後は高崎藩に組み入れられ当時謹慎していた忠長の
小遣い料として安藤重長に与えられて廃藩。
さて、淀殿の墓と伝わるものは長朝が父親の景朝の菩提を
弔うために開いた総社の「元景寺」に在ると言うので早速訪問。
長朝本人の菩提寺は同じ総社町の「光厳寺」だか今日は目的が
違うのでパス。
高崎からR-17を東進し群馬大橋手前の「石倉三丁目」を左折して
R-105を北上。「大渡橋西詰」の丁字路を左折して総社方面へ。
直ぐ先の「総社」信号で右折してR-15、途中に光厳寺に行く信号があるが
直進して突き当りが目指す元景寺。この辺は総社城に吸収されたかつての
勝山城址と言われるがその痕跡は殆ど無いらしい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/b2/1436903a6a859e7f3ca1a610fedae5dc.jpg?random=40dffc457fd54830488cc00c6d938246)
寺手前のこの石柱の所の空き地に駐車して参道を歩く。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/0f/e63e58c19377a8faa5b1c5ce2163eff3.jpg?random=76916c3ca48701a554ab1c475fbfd40c)
やがて山門、豪華な構えだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/14/5d86b7f7bb0943d5ecb3b0e465113dd4.jpg?random=b1e1f5f9f25da20f40c704a0a75536f0)
早速、淀殿の墓と伝わるものがあるとの説明看板。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/ef/70bf0a802be35921c545a9004810b3ed.jpg?random=6641c791e51dd810026bd5f43647e8ec)
治水事業に絡んだ「羽階大権現」や史跡指定の薬師などの前を
通過して寒風が吹き付ける本堂裏の墓地へ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/c6/60c3f7ed00dd26763ee2c0b01debbd84.jpg?random=f0f56f61318a01936d372c909b54e1e0)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/d6/f4ab392386ba87f68960190b32932803.jpg?random=a0a6c91d572693a249efc953e6936e3b)
一番奥の利根川を見渡すところに墓所。正面は巨大な宝筐印塔。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/54/e152b23f3fa596406d8e85161c6a70c6.jpg?random=4595a07179ff29b0dbf59a530b64e5f9)
その左に長朝の父親・景朝の墓。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/95/2970ba67f37b115b0ea96b04b9a11145.jpg?random=cfc8abbacd8443eb96fbaab33c4abb72)
其れに相対して奥方・光厳院殿(春)の墓。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/01/752760e2c24db394833b9dacdd468440.jpg?random=c913b05bb4ff8553cf1116bd4ed11140)
石垣を外れた東にもう一つ。これが淀殿の墓との伝承。勿論、別名
の「お艶」の名で過ごしたことになっている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/b4/5b3d0182983c0e21de53b1e177d5feff.jpg?random=1baea8d16db66feb3ae4bdfecbea0213)
だが、はっきりと読み取れる戒名は「心窓院殿――」、ありゃ
これは景朝の側室ではないのかな? だが、伝承を楽しもうと
いう時にそう云うけち臭い詮索をしてはいかんな。
寛永7年(1630年)
墓地の裏からは榛名や赤城が遮るものも無く一望。風当たりが
強いわけだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/d5/81132070e060297498ee7d4486104fd2.jpg?random=f5599626f2cf0ea41917e68d0dd71430)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/44/cd1b403618d1b3b9bdd58987a9725c4a.jpg?random=4276bdebc9de637880bee1fcea70b494)
さて今度は淀殿のお艶(エン)様が投身したという場所が利根川対岸の
前橋公園にあると聞いて移動。
広い公園の中、目星を付けたボート池の近くの入り口。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/0e/c6db4f32b6a55f818b529d782f853c53.jpg?random=dd0e48fb7b5f6acd96f645bb03e95892)
強風のためか、人も疎らの池の縁を回ると目的のもの発見。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/03/a82b24fd12d8a5a6ec1626468dc53a0c.jpg?random=e88a4b41d6e0a718b2fea6d53666817f)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/35/c9711f66c6cb3281f5387a7062984ab3.jpg?random=b6ac798b99a5b289ff9cbac2ad5568a4)
お艶様没後330年を記念して昭和34年に建設とある。
昭和34年は1959年だからその330年前は1630年。
ここで吃驚、1630年はさっき寺で見た墓銘の寛永7年1630年
と合っている。
説明板から寺や石碑の伝説の説明をそのまま載せる。
元和元年(1615)大阪夏の陣、淀君は自決したのではなく、落城の
折り城から脱出、徳川方の秋元の陣に助けを求め、長朝が総社に
帰るとき淀君を籠に乗せて木曽から信濃を廻って支配地の
総社まで連れてきた。ここでは淀君とは呼べず「お艶(えん)様」と
呼んだと言われる。その後の淀君は、何不自由無く暮していたのだが、
過去の悲しい出来事が忘れられず、ついに岩から利根川の激流に
身を投げてしまったと云う。
元景寺の対岸にある敷島公園に、お艶(淀君)が身投げしたと云う岩に
観音像が建てられているーーーーと言う一席だ。
ブログ一当たりの制限字数が余ったので蛇足。
現在最も一般的に用いられる淀殿、過去に用いられた淀君の名は、同時代の
史料には一切見られず、「淀君」という呼称が広く普及して一般に定着
するのは、明治時代に坪内逍遥の戯曲『桐一葉』が上演された以降のことだそうだ。
「淀君」の呼称については、悪女、淫婦というイメージとともに
売春婦の呼称「辻君」などと結びつけて定着したと小和田哲男先生が主張して
いたが、「君」がすぐさま蔑称だと断定するのには疑問が残る。
彼女の呼称は本名を「浅井茶々」、朝廷より賜った名が「菊子」。
その後、昭和35年(1960年)に発表された井上靖の小説
『淀どの日記』以降、「淀殿」の使用が一般的となったらしくNHK大河ドラマ
でも昭和62年(1987年)に放送された『独眼竜政宗』を最後に「淀君」と
いう呼称は一切使われていないと云う。
また生存中には、居場所の変化に伴って淀の方、二の丸殿、西の丸殿などと
通称されたとのこと。
序にもう一つ眉唾の話。
大阪城落城の時、茶々の没年が49歳とする記録があるそうだ。
生年については、浅井家の記録である『浅井三代記』に茶々の誕生に関する
記述が全くないが近年では永禄12年(1569年)誕生説が有力になっている。
今年の大河ドラマでも脚本はこの線を採っている。
だが、永禄9年(1566年)とか永禄10年生まれの説も生きている。
各説の切っ掛けは江戸時代に書かれた『翁草』に、茶々が慶長20年(1615年)の
大坂の夏の陣で死亡した時49歳(逆算で1566年生まれ)だったと記され、母の市が
長政に嫁いだのが1567年であるため、市の連れ子で長政以前に嫁いだ時に
産まれたという説が生まれた。また市が信長の妹ではなく従姉妹とする
資料もあるため、茶々は信長と市の娘とする説すらある。
翁草(オキナグサ)とは 神沢貞幹が著した随筆作品。鎌倉時代から江戸初期まで
の歴史、伝説、異聞などを諸書から抜き書きし、著者の見聞をあわせて
記録したもの。 1772年(安永元)の発表。
随筆風の百科全書とも別称されるのは様々な書物を元に、内容別に分類抄出して
まとめているからで著者の神沢は京都奉行所与力。
で、この姉妹の生年は一人づつずらされている。おまけに弟が
いたらしい。浅井家男子、長政前妻の子・万福丸は小谷落城の後、
10歳で虐殺されているが、その時、乳飲み子だった末の弟・
万菊丸は逃れているそうだ。通説では乳飲み子は「江」になって
いるがどうも違うらしい。
杵築史談会発行による論文「生きていた浅井長政・お市の次男、
万菊丸」で証明されたそうである。そして熊本浅井家・杵築浅井家などが、
そのご子孫であることが明らかとなったと。
結論として落城1573年を基準とすると万菊丸・1573年生まれ
「江」・1571か1570年、「初」・1569年、「茶々」・1567か1566年。
つまり、万菊丸が歴史から抹殺された存在であることを利用して「江」の
生年を意識的に2-3歳のさば読みして万菊丸と摩り替えた。
だがその理由が面白い。
後に結婚する徳川秀忠が1579年生まれなので出来るだけ年上の
再々婚の「江」との年齢差を縮めて押し付け嫁の評判を避けたのだと。
時に1595年、押し付けたのは勿論「江」を養女としていた
既に半ば耄碌爺の秀吉。事実を捻じ曲げて史実にしてしまったのは
当然、徳川幕府の勝者の記録。
だから何なんだと云われても困る話だが。
まあ、最もすっきりする記述はこれかな?
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