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遂に天候が安定、だが相変らず雑事は多いし、おまけに今週半ばにゴルフコンペ、
山行きをぐっとこらえてぶらりと旧子持村の石像物の見物でお茶を濁す。
(1) 双林寺
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出だしは曹洞宗の名刹・中郷の双林寺へ。高崎から25号線で渋川を抜け、17号線
に合流して北上。鯉沢を過ぎて「子持入り口」信号を左折して子持神社方面に。
中郷小を右に見て進むと左手の森の中に大伽藍、参道先の駐車場へ。
ここが参道入り口、敷地は広大。文安4年(1447)で長尾景仲の創建。
丁度、上杉憲忠が関東管領になった年である。
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大木に囲まれ落ちついた雰囲気の駐車場の正面には見落としてしまいそうな
地味な唐門、右に回り込んで参道を進むと山門の手前右側に「鳥酔翁塚」。
鳥酔は本名・白井信興、千葉生まれの俳人(1701-1769)。芭蕉と蕪村の中間的
存在で、江戸俳檀の俗化を矯正して元禄の古風に戻そうとした。上州には
門下生が多く、高崎市重文になっている「万日堂」にもしばしば訪れているし、
この寺への訪れも四回とか。この塚も地元の門弟が建立したもの。
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山門に向きあってその左手に大きな石の柱。「不許葷酒入山門」と深く彫られた
「結界石」だ。安永九年(1780年)のもの。ロシア船が国後などに出没し始めた頃。
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山門を入ると多くの石像物が並ぶが目に付くのはこの三面馬頭観音。
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左に回ると子持村指定天然記念物の「ヒイラギモクセイ」。
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その脇に「石幢六地蔵」があるが輪廻車の部分は欠落。
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箕郷の石上寺のものには後日付けられた物が嵌め込まれていた。
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六角の胴の部分に六体の仏像が彫られている。
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六道とは天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道の事。
だが、この寺の名物と云われる巨大宝筐印搭や五層庚申搭が見付らない。
寺の裏の竹林の墓地に入るとこんな石造物の羅列

林の中の如意輪観音。
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(2)空恵寺(クエイジ)
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何となく不消化の侭、双林寺を辞して上白井の空恵寺に向かう。来た道を
更に登って約1㌔位北上すると子持神社の大鳥居。
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ここからやや急坂を下って行くと左に空恵寺への道標で細道へ左折。
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今度はつづら折りの急坂を登るが路面が悪く路肩不安の細道に慎重運転。
やがて左手に高遠石工の作という大きな「不動明王」。
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此の先から沿道に「十三仏」が並ぶが下の写真の様に比較的新しく特には
興味をそそる古色は感じない。
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因みに十三仏とは「十三王」の事。人間、死後は余程の善人か悪人でなければ
「中陰」と呼ばれて冥土の裁判官の審査を受けることになる。初七日・不動明王、
27日・釈迦如来、37日・文殊菩薩、47日・普賢菩薩、57日・地蔵菩薩、
67日・弥勒菩薩、77日・薬師如来、100か日・観世菩薩、一周忌・勢至菩薩、
参回忌・阿弥陀菩薩、ここまでが所謂「十王」。
これに加えるに七回忌・阿如来、13回忌・大日如来、33回忌・虚空蔵菩薩の
三方で「十三仏」又は「十三王」と云う事。「77日=49日」と読み替えるのが要領。
さて、入り口から約1㌔の登りで仏像の〆めはやはり「奪衣婆と閻魔」、仲良く
並んで鎮座している。
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奪衣婆関連はこのURLでどうぞ。
http://blog.goo.ne.jp/gooyamachuu/e/942d5585bb5fbe8dc3bc26de7b278444
漸く駐車場に到着。目の前に黒門、横に掲額。
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上に伸びる石段を見上げると806年創建で上毛一番の古寺らしく古色に
包まれた荘厳な雰囲気。頼朝の内妻が供養搭を建てたとかの昔話も伝わり
白井長尾氏が鎌倉から下向後に菩提寺としたとか。
苔生した石段を登ると県指定重文の山門。
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更に石段は続いて今度は「唐門」、唐破風が前後についた「向唐門」とか。
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天保5年(1834年)の建設と言う本殿前の右手には5㍍近い高さの宝筐印搭、
寛政10年(1798年)の作と伝わる。
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左手を見ると巨大な鐘楼、元禄年間のもので和様に禅宗様の装飾性を加味した
「折衷様」と云うが門外漢の爺イにはその辺は理解できない。
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本堂の西側から裏山へ登る。雑草とクモの巣に覆われたこんな石段。
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やがて経倉の脇を過ぎるとやや広い場所。
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先ず、正面のこれが「頼朝分霊碑」、貫禄から思わず頷く。
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広場の右手に進むと長尾氏代々の宝筐印搭がずらりと並ぶ。
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広場の真中にあるのは「鎌倉権五郎景政の碑」と云われるが長尾元祖の
長尾景熈の説もあるとか。鎌倉権五郎景政とは桓武平氏の流れを汲む
平安後期の関東武者、義家に従って後三年の役に従軍、右目を射られながら
奮戦したとの逸話を残す。

薮蚊の襲撃に辟易して山から降りて山門を辞すると脇に大きな線彫り石仏、
だが、線が薄くて良く目を凝らさないと見えない。勿論写真もこんな具合。
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駐車場から超低速で蛇行する急降細道を下り、車道に左折し丁字路を再び
左折すると「北伊熊」の信号で17号線、北上して次ぎの目的の暮沢の
「玉山神社」へ向かう。
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山行きをぐっとこらえてぶらりと旧子持村の石像物の見物でお茶を濁す。
(1) 双林寺
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出だしは曹洞宗の名刹・中郷の双林寺へ。高崎から25号線で渋川を抜け、17号線
に合流して北上。鯉沢を過ぎて「子持入り口」信号を左折して子持神社方面に。
中郷小を右に見て進むと左手の森の中に大伽藍、参道先の駐車場へ。
ここが参道入り口、敷地は広大。文安4年(1447)で長尾景仲の創建。
丁度、上杉憲忠が関東管領になった年である。
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大木に囲まれ落ちついた雰囲気の駐車場の正面には見落としてしまいそうな
地味な唐門、右に回り込んで参道を進むと山門の手前右側に「鳥酔翁塚」。
鳥酔は本名・白井信興、千葉生まれの俳人(1701-1769)。芭蕉と蕪村の中間的
存在で、江戸俳檀の俗化を矯正して元禄の古風に戻そうとした。上州には
門下生が多く、高崎市重文になっている「万日堂」にもしばしば訪れているし、
この寺への訪れも四回とか。この塚も地元の門弟が建立したもの。
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山門に向きあってその左手に大きな石の柱。「不許葷酒入山門」と深く彫られた
「結界石」だ。安永九年(1780年)のもの。ロシア船が国後などに出没し始めた頃。
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山門を入ると多くの石像物が並ぶが目に付くのはこの三面馬頭観音。
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左に回ると子持村指定天然記念物の「ヒイラギモクセイ」。
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その脇に「石幢六地蔵」があるが輪廻車の部分は欠落。
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箕郷の石上寺のものには後日付けられた物が嵌め込まれていた。
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六角の胴の部分に六体の仏像が彫られている。
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六道とは天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道の事。
だが、この寺の名物と云われる巨大宝筐印搭や五層庚申搭が見付らない。
寺の裏の竹林の墓地に入るとこんな石造物の羅列
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林の中の如意輪観音。
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(2)空恵寺(クエイジ)
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何となく不消化の侭、双林寺を辞して上白井の空恵寺に向かう。来た道を
更に登って約1㌔位北上すると子持神社の大鳥居。
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ここからやや急坂を下って行くと左に空恵寺への道標で細道へ左折。
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今度はつづら折りの急坂を登るが路面が悪く路肩不安の細道に慎重運転。
やがて左手に高遠石工の作という大きな「不動明王」。
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此の先から沿道に「十三仏」が並ぶが下の写真の様に比較的新しく特には
興味をそそる古色は感じない。
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「中陰」と呼ばれて冥土の裁判官の審査を受けることになる。初七日・不動明王、
27日・釈迦如来、37日・文殊菩薩、47日・普賢菩薩、57日・地蔵菩薩、
67日・弥勒菩薩、77日・薬師如来、100か日・観世菩薩、一周忌・勢至菩薩、
参回忌・阿弥陀菩薩、ここまでが所謂「十王」。
これに加えるに七回忌・阿如来、13回忌・大日如来、33回忌・虚空蔵菩薩の
三方で「十三仏」又は「十三王」と云う事。「77日=49日」と読み替えるのが要領。
さて、入り口から約1㌔の登りで仏像の〆めはやはり「奪衣婆と閻魔」、仲良く
並んで鎮座している。
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漸く駐車場に到着。目の前に黒門、横に掲額。
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上に伸びる石段を見上げると806年創建で上毛一番の古寺らしく古色に
包まれた荘厳な雰囲気。頼朝の内妻が供養搭を建てたとかの昔話も伝わり
白井長尾氏が鎌倉から下向後に菩提寺としたとか。
苔生した石段を登ると県指定重文の山門。
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更に石段は続いて今度は「唐門」、唐破風が前後についた「向唐門」とか。
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左手を見ると巨大な鐘楼、元禄年間のもので和様に禅宗様の装飾性を加味した
「折衷様」と云うが門外漢の爺イにはその辺は理解できない。
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本堂の西側から裏山へ登る。雑草とクモの巣に覆われたこんな石段。
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やがて経倉の脇を過ぎるとやや広い場所。
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先ず、正面のこれが「頼朝分霊碑」、貫禄から思わず頷く。
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広場の右手に進むと長尾氏代々の宝筐印搭がずらりと並ぶ。
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広場の真中にあるのは「鎌倉権五郎景政の碑」と云われるが長尾元祖の
長尾景熈の説もあるとか。鎌倉権五郎景政とは桓武平氏の流れを汲む
平安後期の関東武者、義家に従って後三年の役に従軍、右目を射られながら
奮戦したとの逸話を残す。
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薮蚊の襲撃に辟易して山から降りて山門を辞すると脇に大きな線彫り石仏、
だが、線が薄くて良く目を凝らさないと見えない。勿論写真もこんな具合。
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駐車場から超低速で蛇行する急降細道を下り、車道に左折し丁字路を再び
左折すると「北伊熊」の信号で17号線、北上して次ぎの目的の暮沢の
「玉山神社」へ向かう。
ご来訪のついでに下のバナーをポチッと。
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この晴天に いてもたってもいられず 「雨乞山」を歩いてきました。 よりによって 雨乞山へ向かう 私も私ですが・・・。
ミクシイ拝見しました。雨乞も戸神も予想以上の展望が
得られたようで、好天待ちの甲斐がありましたね。
当方もそろそろ再開したいのですが、早くも今週末は
予報が悪いのでどうなる事やら。