先日の白井武者行列の折、良く知らなかった事が幾つかあつたので
整理してみた。
その第一は他の武者行列ではあまり見かけないこの家紋。
スタート前の大将役の武将もこの家紋の幟に囲まれていたし
行列の先頭集団もこの幟が先行していた。
この家紋を資料画像から拝借して間近に広げるとこんな形。
星紋をあらわす九曜紋と、弓を射る時に使う鞆(とも)か勾玉を
図案化した巴を組み合わせている。巴は大太鼓の中心部の
「左三つ巴」・「右二つ巴」として我々にはお馴染み。
この「九曜巴」として知られる家紋は妙見信仰から生まれた
家紋であり、桓武平氏良文氏流の諸氏が用いたが長尾氏の遠祖は
平良文であると云うのだから当然の事なんだろう。
はじめの段階では「星」が九つの「九曜星」であったらしいが、
何時の頃からか 「星」を武神八幡宮の紋「巴」に変えているので
「九曜巴」は妙見信仰と八幡信仰とが凝縮された家紋。
良文と妙見信仰の関係には故事が伝わっている。
平将門が伯父の平国香と争った時、妾腹で不遇の良文は甥の将門に
味方して戦うが苦戦し良文は自害する場を求めて彷徨っていた。
そこに北斗七星の化身・妙見菩薩が現れ七星剣を渡すと、加護を
受けた良文・将門軍は勝利を重ねて坂東八カ国を制したとーー。
但し良文はこの乱中に、陸奥守、鎮守府将軍として陸奥国胆沢に
赴任している。
尚、良文後裔の一族・薩摩東郷氏から海軍元帥・東郷平八郎が
出ている。
第二はこの「白井城主・長尾景仲」の幟。
武者行列では景仲役の方が唯一の馬上姿で行進に参加していた。
この白井城は築城年代、築城者とも記録に無い城だが祭りでは
長尾景仲(1388-1463)が築城したとされ武者行列の大将。
景仲は関東管領上杉氏と白井長尾氏の発展のために力を尽くした
生涯を送ったが景仲が築城という根拠は本丸の構造が、上杉軍が
本陣とした武蔵五十子城の主郭構造と相似していることから、両城とも
この乱の渦中で重要な位置を占めていた景仲が、長尾氏本拠の
白井に城郭の必要性を感じ、築城したと考えられるーーが定説との事。
白井と長尾の関係は山内上杉氏の有力な配下で上野・越後両国の守護代を
長尾景忠が務めたことに始まっている。未だ南北朝の初期の1337年頃で
ある。但し、当時の白井には白井氏を名乗る武士団が存在していたので
居所は前橋・惣社。
その後に上野と越後の守護が分岐すると長尾氏も景忠の3人の子どもが
分立して、景廉が越後長尾氏、景直が鎌倉長尾氏、清景が白井長尾氏の
祖となった。
この地も戦国時代の荒波に揉まれる。箕輪城は1566年に白井城は1567年に
武田軍に蹂躙され1579年まで真田昌幸が城代として白井を支配。
この間、白井長尾氏は渋川市北橘町分郷八崎の八崎城に退避していたが
1578年に武田勝頼に臣従(長尾憲景の時代)。この時、既に信玄没して5年、
長篠の武田惨敗から3年後のことであり越後では謙信没後の御舘の乱。
そして1582年、武田氏が信長・家康連合軍に虐殺されると長尾氏は
後北条氏に属して1583年に白井城主に返り咲いた。
だが不幸にして1590年の小田原攻めで後北条氏が没落すると共に
白井城も開城して降参し長尾の白井支配は終焉して
(10代目景広1573-1630 の時代)一族は上杉景勝の家臣となる。
第三はこの「白井城主・本多広孝」の幟。
1590年 豊臣・徳川方に開城した白井城は又もや主が変わり徳川
家康家臣の本多広孝(1528-1598)に与えられたーーーとされるが実際には
広孝は1577年に既に家督を息子の本多康重に譲っているから
「康重が上野国白井城主2万石に封ぜられると広孝も白井城に移つた」
と言うところだろうが関ケ原前夜で沼田城の真田昌幸を押さえる
前線基地の役目を果たしたことになる。
関ヶ原の戦いの後、本多康重は三河岡崎藩に5万石を与えられて転出、
1601年に武蔵国から松平康長が白井に入り、1602年には1万石で
井伊直孝が藩主、1616年に直孝が本家を継ぐため転出すると西尾忠永が
2万石で入る。
そして1618年に本多康重の次男・本多紀貞(1580-1623)が1万石で取り立てられたが
1623年に紀貞は嗣子無くして死去し白井藩は廃藩、白井城は廃城と
なり破却された。系図で見る通り広孝の家系は家康の参謀・本多正信親子に
極めて近い。
何とはなしの雑感は以上で終わり。
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整理してみた。
その第一は他の武者行列ではあまり見かけないこの家紋。
スタート前の大将役の武将もこの家紋の幟に囲まれていたし
行列の先頭集団もこの幟が先行していた。
この家紋を資料画像から拝借して間近に広げるとこんな形。
星紋をあらわす九曜紋と、弓を射る時に使う鞆(とも)か勾玉を
図案化した巴を組み合わせている。巴は大太鼓の中心部の
「左三つ巴」・「右二つ巴」として我々にはお馴染み。
この「九曜巴」として知られる家紋は妙見信仰から生まれた
家紋であり、桓武平氏良文氏流の諸氏が用いたが長尾氏の遠祖は
平良文であると云うのだから当然の事なんだろう。
はじめの段階では「星」が九つの「九曜星」であったらしいが、
何時の頃からか 「星」を武神八幡宮の紋「巴」に変えているので
「九曜巴」は妙見信仰と八幡信仰とが凝縮された家紋。
良文と妙見信仰の関係には故事が伝わっている。
平将門が伯父の平国香と争った時、妾腹で不遇の良文は甥の将門に
味方して戦うが苦戦し良文は自害する場を求めて彷徨っていた。
そこに北斗七星の化身・妙見菩薩が現れ七星剣を渡すと、加護を
受けた良文・将門軍は勝利を重ねて坂東八カ国を制したとーー。
但し良文はこの乱中に、陸奥守、鎮守府将軍として陸奥国胆沢に
赴任している。
尚、良文後裔の一族・薩摩東郷氏から海軍元帥・東郷平八郎が
出ている。
第二はこの「白井城主・長尾景仲」の幟。
武者行列では景仲役の方が唯一の馬上姿で行進に参加していた。
この白井城は築城年代、築城者とも記録に無い城だが祭りでは
長尾景仲(1388-1463)が築城したとされ武者行列の大将。
景仲は関東管領上杉氏と白井長尾氏の発展のために力を尽くした
生涯を送ったが景仲が築城という根拠は本丸の構造が、上杉軍が
本陣とした武蔵五十子城の主郭構造と相似していることから、両城とも
この乱の渦中で重要な位置を占めていた景仲が、長尾氏本拠の
白井に城郭の必要性を感じ、築城したと考えられるーーが定説との事。
白井と長尾の関係は山内上杉氏の有力な配下で上野・越後両国の守護代を
長尾景忠が務めたことに始まっている。未だ南北朝の初期の1337年頃で
ある。但し、当時の白井には白井氏を名乗る武士団が存在していたので
居所は前橋・惣社。
その後に上野と越後の守護が分岐すると長尾氏も景忠の3人の子どもが
分立して、景廉が越後長尾氏、景直が鎌倉長尾氏、清景が白井長尾氏の
祖となった。
この地も戦国時代の荒波に揉まれる。箕輪城は1566年に白井城は1567年に
武田軍に蹂躙され1579年まで真田昌幸が城代として白井を支配。
この間、白井長尾氏は渋川市北橘町分郷八崎の八崎城に退避していたが
1578年に武田勝頼に臣従(長尾憲景の時代)。この時、既に信玄没して5年、
長篠の武田惨敗から3年後のことであり越後では謙信没後の御舘の乱。
そして1582年、武田氏が信長・家康連合軍に虐殺されると長尾氏は
後北条氏に属して1583年に白井城主に返り咲いた。
だが不幸にして1590年の小田原攻めで後北条氏が没落すると共に
白井城も開城して降参し長尾の白井支配は終焉して
(10代目景広1573-1630 の時代)一族は上杉景勝の家臣となる。
第三はこの「白井城主・本多広孝」の幟。
1590年 豊臣・徳川方に開城した白井城は又もや主が変わり徳川
家康家臣の本多広孝(1528-1598)に与えられたーーーとされるが実際には
広孝は1577年に既に家督を息子の本多康重に譲っているから
「康重が上野国白井城主2万石に封ぜられると広孝も白井城に移つた」
と言うところだろうが関ケ原前夜で沼田城の真田昌幸を押さえる
前線基地の役目を果たしたことになる。
関ヶ原の戦いの後、本多康重は三河岡崎藩に5万石を与えられて転出、
1601年に武蔵国から松平康長が白井に入り、1602年には1万石で
井伊直孝が藩主、1616年に直孝が本家を継ぐため転出すると西尾忠永が
2万石で入る。
そして1618年に本多康重の次男・本多紀貞(1580-1623)が1万石で取り立てられたが
1623年に紀貞は嗣子無くして死去し白井藩は廃藩、白井城は廃城と
なり破却された。系図で見る通り広孝の家系は家康の参謀・本多正信親子に
極めて近い。
何とはなしの雑感は以上で終わり。
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帰りの北尾根はこれまた迷うこともない道で新緑に埋まった牛伏山が印象的でした。この角度から見ると、車道が頂上まで続いている山には見えません。
八束山には何度も登っておられるようですが、私もいい山だなと思いました。藪漕ぎ、けもの道探索は家人も心配するのでもう止めましょう。こんな山が年相応かなと思っています。
toboketaGさん お早うございます。
八束山は小生の冬場の足慣らし場でした。
あの北コースは「吉井町まちづくり推進委員会」の
八束山プロジェクトの平成14年の労作で西コースは
平成17年の苦心の作です。丁度其の頃、吉井三山
縦走コースを探索していた小生も若干コース設定に
協力したので思い入れが深いのですが山仲間の
「まちすい」の事務局長さんも新潟転居、
hpもジオシティー配信休止でネットから消えてしまい、平成も終わりの感がして寂しい限りです。