クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

リハビリ開始 史跡巡り H-19-9-18

2007-09-19 15:50:36 | 伝説・史跡探訪
退院してから丁度一週間、当人は完全に回復と思いこんでいる。だが、
病院から渡された注意書きには「回復には入院期間の三倍を要す」とある。
まあ、これは重病人であった場合であろうし、後日指導不備で絶対にクレーム
を付けられない保険みたいなものだろう。従って三倍に数回少数を乗じた結果
答えは一週間、少しづつ動き出すことにした。手始めは軽く史跡巡り。
昨日の9/17は高崎の誇る俳人・村上鬼城の命日なので、一日遅れながら
その墓参り。菩提寺は若松町の「竜広寺」、


ここへは高崎公園から「頼政神社」を横切っても良し、佐藤病院から光明寺を
経ても良いが、17号線の上り車線で「聖石橋信号」手前の細道に入れば
山門前の駐車場。
広い墓地には鬼城墓の案内板が随所にあるので迷う事は無い。


看板つきの墓の側面の俗名は「村上荘太郎」。昨日の命日に墓参の人が
多かったのか、沢山の花が供えられている。爺イも神妙に合掌。


先日の疾病によりすっかり白髪頭。イヤイヤそれは嘘、染髪を止めただけ。
墓地の西端には日露戦争当時のロシア兵の墓地もある。
当時は高崎近辺に500名も抑留されていたそうで、帰国までに病死した
数名の兵士の墓とか。当時の日本人の心の広さに感服する事しきり。


さて、竜広寺を辞したあとも、鬼城繋がりで並榎に向かい、テニス場駐車場へ。
平日のせいか広場には人影も無し。


ここから散歩を開始、スーパー両水方面に戻って、細い道をクネクネと辿り
鬼城が晩年の10年を過ごした「並榎村舎」、通称「鬼城庵」へ。今は
「鬼城記念館」と言った方が通りが良い。鬼城は明治27年から「鞘町」に
住んでいたが(今のスズランの近くか?)昭和2年に類焼で焼け出され、
昭和3年に並榎に移り住み、ここが終焉(昭和13年)の地となっている。
看板はあるが古い家屋。オッと入館料が必要、小銭入れには飲料・タバコ代
きりなく、入館を断念。間抜けな話だ。


再び、テニス場に戻って管理棟脇の鬼城句碑を見に行く。


「浅間山の 煙出てみよ けさの秋」
この句は鞘町時代の作といわれるので明治・大正時代の鞘町の庭先から浅間が
良く見えたのであろう。高崎市内の鬼城句碑は17基、この句は2ヶ所。
今度は、「道しるべ道祖神」探しにかかる。一旦、両水脇からの車道に戻り
信越線の線路を越えて僅かの「塚越オートショップ」角を右折して「長野堰」に
出る。30年程前の案内書ではここにある筈だったが、見当たらない。
農作業の人に聞いたら昔はあつたが、長野堰遊歩道の整備の時、何処かへ
移設してしまったので判らないとの返事。例によってしつこい探索開始。
先ず、遊歩道を北に向い室田街道まで行くが何も無し、今度は南に下って
信越線跨線橋を越えたら其の袂で発見。粘り勝ちでにんまり。


1771年に上並榎村が建設したもので「道陸神」とあり、左下には
「左 しらいわ はるな」とあり右下には「右 並榎邑」と刻まれている。
「道陸神」は「どうりくじん」とか「どうろくじん」と読むらしいが道祖神と
同一の神であり、日本古来の邪悪・疫病を遮る神と中国の「道の神」との習合。
ここのは単なる道祖神ではなく多分、白岩観音・榛名神社への参拝、
榛名山詣の旅人への道しるべを兼ねたもので、本来は室田街道にあったもの
と推察されている。並榎村では1771年に三体作られているが、あとのニ体は
この道が室田街道とぶつかる分去れにあった。ここのも右は「道陸神」。


さて、室田街道を経大方面に進むと左側に「天龍護国寺」と「日枝神社」。
「天龍護国寺」は話題が豊富。創建は864年と言うから清和天皇の時代。


京都比叡山を模したので山号は「新比叡山」。其の後、二度の大火で焼失
したが1795年、豊岡薬王寺九世の「一元上人」が護国寺16世に転住して
中興の祖となり1803年に現在の形に再建したとされる。この上人、詩歌・
書に長じた文化人で風流の道にも造詣が深く「並榎八景絵巻」を完成し、
護国寺宝の一つとなっているそうである。
江戸時代の中でも18世紀末から、近江八景に因んで全国で「00八景」の
選定がされ
詩歌に詠まれ、絵巻きが作られたが、高崎周辺でも「倉賀野八景」「並榎八景」
「高崎八景」「長松禅寺八景」が知られている。
並榎八景絵巻とは1804年、新装なった護国寺で「一元上人」が主宰して
高崎城下の風流人が集まり護国寺から見た風景を、各メンバーが漢詩又は
和歌を一首づつ詠みあげ、絵は郷土絵師・本郷の神宮守満が担当したもの。
この「並榎八景絵巻」と並ぶ寺宝は「天龍護国寺」と書かれた勅額で何と
平安三蹟の一人・小野道風の真筆と言われるもの。勿論、我々の目に触れる
この掲額は当然の事ながら模造額である。


さて、寺裏にあるこの石碑の文字は何の意味だろうか?
「縁日正月三日疫除元三大師」。


護国寺の縁日は正月三日で「大師様の縁日」と言われる。この大師様とは
天台宗の高僧・良源の事で正月三日に入寂したが正月の三日までを「元三」と
いうので「元三大師」と云われている。正月三日は信者が疫除を大師に
祈願する縁日との事。
本堂の西側には小さな屋根の下に船形石棺の蓋がある。これは1892年に
近くの稲荷山古墳から発掘されたもの。擬灰岩の為、風化が甚しいが、
今は見ることも無い稲荷山古墳を偲ぶ唯一のもの。(上小塙の稲荷山古墳
とは別物)


註・この稲荷山古墳は上並榎187であるから、護国寺の東北、真木病院
の西南にあたる。当初は高さ10㍍の前方後円墳であり、発掘は1892年、
発掘後、真中を切り通して筑縄への村道が築かれ、1908年には前方が
削られ頂上に稲荷だけが残される。戦後になって1961年に崩されて
四中の校庭整備に使われて姿を消した。現在は住宅地、其の痕跡もない。
護国寺の石棺と「並榎八景絵巻」に名を残すのみ。


もう一つ、「信玄の鍋掛石」を捜し出した。中盤が欠け落ちた石であるが、
箕輪城攻略の武田軍が護国寺に野営した時大鍋を掛けて煮炊きしたとか。
まあ 眉唾ものだが。


この寺の墓地には変わった墓石があるとの噂。其の幾つかを探した。
歴代上人の墓石の中に蓮台の上に円形の石、ぐるりと梵字が取り囲む梵字搭。


ちゃんと目の切ってある脚付き将棋盤に将棋の駒の形、おまけに香炉台が
サイコロとは吃驚。


隣の日枝神社に移動。

室田街道に面する神社裏にはひっそりと双体道祖神、銘は読めない。


この神社は護国寺の創建と同時代の860年代に近江・日吉(ヒエ)神社からの
分社とか。日吉神社は元は山の神なので昔は「山王様」、木立は深く
「山王(サンノン)様の森」と言われた。かってのこの神社の名物は銀杏・
菩提樹・槐(エンジュ)の古木だったが今は良く判らない。隣の榎保育園内に
あるのは其の名残で樹齢千数百年の銀杏の木。
数度の台風や落雷で僅かに痕跡を残すのみ。


さて、ここまで来たので経大先の下小塙信号を右折して「唐崎の松と行人塚」
探し。
この小道は江戸時代に「窪八大侭」と言われた酒蔵家の金井八左衛門の開いた
「八左衛門通り」とか。「唐崎の松」は見当たらなかった。近所で聞いたら
二代目松も害虫によって枯死してしまったとか。整地された小広場に行人塚発見。


江戸時代の中期、この周辺に疫病が蔓延し、ここに「大焼き場」の地名を
残すほどだったが、草津街道を来た老行脚僧が村人の苦渋を見かねて自ら
入寂し21日間で成仏したが、疫病の流行は去ったと言う。

一旦、護国寺に戻って最後のターゲット・並榎城址の確認に掛る。
この城址は余り知られていないが護国寺から南方に伸びて烏川までの東西200m、
南北230mで本丸・二の丸・三の丸に分かれると説明されているが、この地域は
新興住宅地に変貌しているし、付近に城址案内の表示は一切ないので難物
の予感。
山崎一氏解説の図によれば、本丸は信越線が台地を横切るところなので、
護国寺から迷路のような住宅地の細道を南に向う。この道は
「旧草津街道」とか。
付近の堀はまるで谷の様に深く、城の濠を連想させる。


信越線の線路に立って見渡しても何の変哲もない畑と草原。困ったものだ。


河原に下って台地を見上げると今度は何となく城塁の感じがする。
「烏川の作った高さ7-8mの崖を要害としーー」の解説にピッタリだ。
何の表示もないが確かにここが本丸跡、この東に二の丸跡がある筈。


山崎一の著書の付図


これは城址と言うべきか、砦と言うべきか分からないが、戦国の土豪で
和田氏の騎馬衆「並榎将監」の居城であつたらしいが
微かな記録から見ると、この砦は永禄年間以前(1560年以前)に築かれ
当初は長野氏に属し、後に和田氏の持ち城になったらしいが細かい
記録は全く存在しないとの事。

何とか史跡扱いが
出来ないものかと、少々不満を抱えながら炎天下の烏川サイクリング道路を
テクテクと歩いて駐車場。全行程3時間半は病後の第一回としては
やり過ぎかも知れない。

参考文献 「高崎の散歩道・第八集」「徐徐漂たかさき」

村上鬼城 略年譜
本名・荘太郎の鬼城は慶応元年(1865)500石取りの祖父を持つ鳥取藩士の
長男として江戸藩邸で生まれた。8歳の頃、母方の縁故によって群馬に
移り前橋を経て高崎に住む。
当初は時代の気運で軍人を志したが、耳疾のため断念したとも伝えられる。
明治27年、高崎裁判所・構内代書人となって鞘町に居を定める。
父の跡を継いで代書人になったとか。
構内代書人とは裁判所構内に机を置き、求めに応じで訴状など代書する
仕事で、後の大正八年の法改正で「司法代書人」となり、これが現在の
「司法書士」の元となるのは昭和八年の事で、鬼城が退官してから
12年の後である。
鞘町に移ってから数年後の34歳の頃から、子規の教えを受けるようになり
投句・作句に勤しんだ。大正二年の高崎俳句大会で高浜虚子の推賛を受けて以来
鬼城は広く世に知られるようになり「芭蕉に追随し一茶に優る境涯の句」
として高い評価を受ける。鬼城句集が次々と発刊されるが、昭和2年に
鞘町の活動拠点が類焼にあって焼失、翌年に門人達の助力もあって並榎に
「並榎村舎」と呼ばれる鬼城草庵を再興。
ここで俳誌「桜草」を刊行したり「白梅会」を発足させている。其の後も
句会の指導や揮毫と俳画の制作に余念がなかったが、昭和13年体調を崩して
74歳でその生涯を閉じた。縁のあつた高崎裁判所の構内にも句碑が
建てられている。菩提寺は「高崎山竜広寺」  「青萍院常閑鬼城居士」
参考資料・「村上鬼城の部屋」「群馬の句碑」

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7 コメント

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祝!じぃ様再始動 (こば)
2007-09-20 23:19:13
じぃ様、まずは復帰おめでとうございます!

昔、烏川の鉄橋の上並榎側のに母の実家がありました。小学生の頃、烏川に水遊びに行くのにあの急坂は難所?でした(笑)なるほど、お城の壁や堀の蹟だったんですね。蛇足ながら、当時私は「防空壕探険隊」を編成し、悪ガキ共とあの辺りを荒らし回ってました。

お城のお堀跡は、戦時中は防空壕を掘りやすかったんですね。
返信する
「こば」さんへ (爺イ)
2007-09-21 09:24:24
コメント有難う御座います。
ボチボチ始める積りですが、9/25に病院でチェックがあるので
それまではそれなりの範囲で我慢。
並榎砦の事は護国寺で伝承を伺いましたし、新興住宅の
お宅は別にしても本丸付近の旧家にお邪魔したら実に
詳しい説明を受け、現地の案内までをしていただきました。
砦を通過して烏川へ下る細道は「旧旧草津街道」と教えてくれたのも其の御仁です。旧旧とは「旧草津街道」の其の又の
裏街道と言う意味だそうです。
史跡探訪は色んな人との出会いがあり楽しいものです。
返信する
元気になられて 良かったぁ~w (おっち村長)
2007-09-21 14:52:11
  コメントこそ 入れませんでしたが 密かに 心配しておりました。 元気そうで 安心しましたw

 本日 爺ィさんの 日記を参考に 丸岩へ 行ってみましたw
 が・・・。

 山頂には それらしい形跡は何も無く・・・。
 しばらく ウロウロしてみましたが やっぱり ここで間違いない!! と 山頂らしき 平べったい ところで 写真を撮ってきました(笑)
 
返信する
村長サンへ (爺イ)
2007-09-21 17:06:57
ご心配掛けました。実はこちらも村長さんの山行き記事が
数ヶ月途絶えていたので、多忙故か?体調かな?
と気にしていました。お元気そうで何よりです。
早く北の高気圧が下がると良いですね。
丸岩頂上には伊勢崎の団体とG氏の小型標識が
あった筈ですが?
返信する
Unknown (おっち村長)
2007-09-21 21:59:19
  大弁才天 と 掘られた 自然石は 確認できましたので
山頂であることは 間違いないと思うのですが 残念ながら 小型標識は ありませんでした・・・。

  六月に 膝の靭帯を負傷してから 3ヶ月近く 山歩きを 休んでいましたが また 歩き始めましたw
返信する
初めてコメントさせて頂きます。 (雲隠)
2008-10-19 23:56:32
初めてコメントさせて頂きます。
くもがくれ、と申します。
突然に、そして1年も前の記事へのコメント、大変申し訳ありません。

鬼城の浅間山のこの句を検索していたら、偶然こちらに辿り着きました。内容を拝見させて頂いたところ、何とも自分に馴染み深い場所が紹介されており、嬉しくなってしまいました。
上の道祖神は、自分の通学路でした。並榎の砦も、ずっと以前より気になっていた場所なので、今度こちらの記事を手がかりに行ってみようと思います。そしてまさか、実家のお墓のあるこの寺に、信玄縁の石があったとは…。勉強不足を思い知りました。
自分は史跡巡りが趣味ですが、もっと身近な史跡にも目を向けねばいけませんね。

大変興味深いブログでいらっしゃるので、これからもお邪魔させて下さい!
それでは、突然の長文、大変申しわけありませんでした。
返信する
RE: 鬼城句碑 (クタビレ爺イ)
2008-10-20 06:54:38
くもがくれ様
オハヨウ御座います。コメント有難う御座いました。
今年から後期高齢者の背番号が付いた小生は、高崎に移り住んで既に40年近くになりますが、地元のことを知らないまま
終るのは心残りなので時々、伝説・史跡探訪をして当ブログのカテゴリー・史跡探訪の項に60編ほど纏めてあります。
種は全て近所の市立図書館郷土史コーナーにある数多くの
研究者先輩諸氏の小冊子ですが、ご存命の先生方には直接
連絡をとって色々とご指導を賜っています。
今後とも宜しく。
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