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今日も暑い。午後になって総裁選候補者の討論会の大方を聞いてから
一寸散歩で下小塙地区へ。勿論カメラ片手の史跡巡りを兼ねている。
この地区には昔から「東地蔵に西天神」という諺が残っているとの事。
この東地蔵とは「円性寺の地蔵尊」であり西天神とは鎮守の天神様としての
「北野神社」である。ここらから本日の探訪開始。
自宅から歩き出して高前バイパスを横切り「はなみずき通り」を北上して
最初の信号を左折し、真木病院前を通過、西進して北部小学校を目指す。
今日も田舎道で小学生が車に刎ねられる事故が報じられたが、この道も
同様で小学生の登校路にも拘わらず歩道がなく車も結構多い。
強烈な西日を浴びながら小学校隣の北野神社着。木陰で一休み。
先ず探すのは道祖神と「左やハた、いたハなみち」と書かれていると言う
道しるべ。北野神社から南に進んで「土地改良記念碑」のところで
コンクリートの台に5基の石像物が纏められている。全く味気ない事を
するものだ。
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文字道祖神一体、双神道祖神三体、仏像一体。地元の人の話では、道路整備で
付近の道祖神を纏めたものだが文字道祖神と古い双神のニ体は元々のもの
単体の仏像と新しい双神は何処から持って来たか不明とか。
だが、肝心の道しるべは見付らない。少し、東に移動して公民館付近を探索。
これも聞いたら公民館南石垣を作る時に埋め込んでしまったらしく頭だけ
見えている始末。酷い話で呆れかえった。教育委員会殿、こんな事で
良いのだろうか?
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公民館の北側民家の土蔵前の石垣上に六体の石像物。ここは昔の「高札場跡」。
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高札場とは江戸時代に高崎藩や村役人から村民に出したお触書の掲示場。
石像物の中では「女人講如意輪観音」と
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「二十二夜搭」が目立つ存在。
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女人講やニ十二夜搭は山門脇に如意輪観音がある貝沢町の「不動寺」が著名とか。
物の本によれば、もともと二十二夜とか二十六夜とかの「月待ち信仰」は
江戸時代からで、この月の出に如意輪観音を拝むと幸福が訪れ、安産・子宝に
恵まれるとされ、女性本来の願いとマッチした。そこで如意輪観音が二十二夜様
の本尊となり女性の信仰を受けるようになったらしい。
ここから南にかけての低地が「窪」といわれ、かっての大富豪・金井八左衛門の
屋敷跡。「窪八大尽」の名の由来がここにある。今はアパートだらけ。
金井家は児玉党倉賀野金井淡路守の一族で代々金井八左衛門を名乗り酒造家の
お大尽。最も著名な天保十年歿の御当主の墓はあとで見に行く。
東に向かって「円性寺」
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寺宝の「金銅地蔵仏」は高崎市から文化財に指定されていもので実物は見られない。
説明によると高さ31.2㌢、幅11.5㌢、厚さ5.3㌢だそうである。看板から
接写によって影像をゲット。文永11年の作と言われるので、北條時宗の時代、
元・高麗の軍が壱岐・対馬を侵した文永の役(1274年)の年。
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昔はこの寺では7月の一週間、五穀豊穣を祈る念仏講があつたらしい。
今度は北小の通りを南進して「唐崎の薬師様」探し。細道をウロウロと歩き
回って赤い涎掛けの薬師を漸く発見。宝永3年というから1706年の造立。
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足元に多数のミニ薬師、かっては100ヶもあったというがどう見ても数十個。
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ここから一本北の道の脇に金井家の纏まった墓地群がある。この中に例の
お大尽・金井八左衛門の墓があると聞くので探索。
全部が金井家の墓地なので探すのに一苦労。出来るだけ古いもの、著名人だから
立派な天蓋がのっているもの。それでも発見までに廿分もかかった。
やや中央で西向き、天蓋は立派であるが中型の墓。
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俗名・金井八左衛門敷風と没年78歳の「天保十年六月十九日」で確認。
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側面には「天保五年 上豊岡村外所氏女 むめ」とある。
この二人の嫡子に「小塙の杉丸」として寛政から文化年間に活躍した
俳人がいる。墓地は紺屋町・善念寺、俗名は養子先の名で「須藤喜三郎」。
今日の散歩はコンなもので打ち上げ。暑い夕日を今度は背中に受けて帰宅。
参考文献・「高崎の散歩道・第五集、第八集」
ご来訪のついでに下のバナーをポチッと。
一寸散歩で下小塙地区へ。勿論カメラ片手の史跡巡りを兼ねている。
この地区には昔から「東地蔵に西天神」という諺が残っているとの事。
この東地蔵とは「円性寺の地蔵尊」であり西天神とは鎮守の天神様としての
「北野神社」である。ここらから本日の探訪開始。
自宅から歩き出して高前バイパスを横切り「はなみずき通り」を北上して
最初の信号を左折し、真木病院前を通過、西進して北部小学校を目指す。
今日も田舎道で小学生が車に刎ねられる事故が報じられたが、この道も
同様で小学生の登校路にも拘わらず歩道がなく車も結構多い。
強烈な西日を浴びながら小学校隣の北野神社着。木陰で一休み。
先ず探すのは道祖神と「左やハた、いたハなみち」と書かれていると言う
道しるべ。北野神社から南に進んで「土地改良記念碑」のところで
コンクリートの台に5基の石像物が纏められている。全く味気ない事を
するものだ。
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文字道祖神一体、双神道祖神三体、仏像一体。地元の人の話では、道路整備で
付近の道祖神を纏めたものだが文字道祖神と古い双神のニ体は元々のもの
単体の仏像と新しい双神は何処から持って来たか不明とか。
だが、肝心の道しるべは見付らない。少し、東に移動して公民館付近を探索。
これも聞いたら公民館南石垣を作る時に埋め込んでしまったらしく頭だけ
見えている始末。酷い話で呆れかえった。教育委員会殿、こんな事で
良いのだろうか?
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公民館の北側民家の土蔵前の石垣上に六体の石像物。ここは昔の「高札場跡」。
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高札場とは江戸時代に高崎藩や村役人から村民に出したお触書の掲示場。
石像物の中では「女人講如意輪観音」と
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「二十二夜搭」が目立つ存在。
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女人講やニ十二夜搭は山門脇に如意輪観音がある貝沢町の「不動寺」が著名とか。
物の本によれば、もともと二十二夜とか二十六夜とかの「月待ち信仰」は
江戸時代からで、この月の出に如意輪観音を拝むと幸福が訪れ、安産・子宝に
恵まれるとされ、女性本来の願いとマッチした。そこで如意輪観音が二十二夜様
の本尊となり女性の信仰を受けるようになったらしい。
ここから南にかけての低地が「窪」といわれ、かっての大富豪・金井八左衛門の
屋敷跡。「窪八大尽」の名の由来がここにある。今はアパートだらけ。
金井家は児玉党倉賀野金井淡路守の一族で代々金井八左衛門を名乗り酒造家の
お大尽。最も著名な天保十年歿の御当主の墓はあとで見に行く。
東に向かって「円性寺」
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寺宝の「金銅地蔵仏」は高崎市から文化財に指定されていもので実物は見られない。
説明によると高さ31.2㌢、幅11.5㌢、厚さ5.3㌢だそうである。看板から
接写によって影像をゲット。文永11年の作と言われるので、北條時宗の時代、
元・高麗の軍が壱岐・対馬を侵した文永の役(1274年)の年。
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昔はこの寺では7月の一週間、五穀豊穣を祈る念仏講があつたらしい。
今度は北小の通りを南進して「唐崎の薬師様」探し。細道をウロウロと歩き
回って赤い涎掛けの薬師を漸く発見。宝永3年というから1706年の造立。
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足元に多数のミニ薬師、かっては100ヶもあったというがどう見ても数十個。
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ここから一本北の道の脇に金井家の纏まった墓地群がある。この中に例の
お大尽・金井八左衛門の墓があると聞くので探索。
全部が金井家の墓地なので探すのに一苦労。出来るだけ古いもの、著名人だから
立派な天蓋がのっているもの。それでも発見までに廿分もかかった。
やや中央で西向き、天蓋は立派であるが中型の墓。
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俗名・金井八左衛門敷風と没年78歳の「天保十年六月十九日」で確認。
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側面には「天保五年 上豊岡村外所氏女 むめ」とある。
この二人の嫡子に「小塙の杉丸」として寛政から文化年間に活躍した
俳人がいる。墓地は紺屋町・善念寺、俗名は養子先の名で「須藤喜三郎」。
今日の散歩はコンなもので打ち上げ。暑い夕日を今度は背中に受けて帰宅。
参考文献・「高崎の散歩道・第五集、第八集」
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私の家の近くにもこんな所があったんですねー、散歩が楽しみになりました。うちは真木病院の並びですから(笑)
ところで翁は物書きさんだったのですか?いつも引き込まれてしまいます。
永らく高崎に住んでいながら郷土の歴史を知らなさ過ぎるので
時々史跡探訪をするようにしています。
今度は大森院から烏子稲荷神社に掛けての五万石騒動の
関連を尋ねる積りです。
あとの
ビックリ!ですw